音の迷宮、沈黙の鍵
夜の学院は、異様なほど静まり返っていた。
月明かりが石畳を淡く照らし、風の音さえも、塔に吸い込まれていくようだった。
学院の北端――そこに、幻奏の塔がそびえている。
ヴァレリオが最初に姿を現した、あの夜と同じ場所。
黒い輪郭だけが夜空に溶け、塔の内部からは、かすかに「逆さの譜面」が漏れていた。
「……行くのか、ルナ」
カイルの声が背中から届いた。
いつもと違い、その旋律には冗談のリズムがなかった。
ノアもまた、無言で隣に立ち、塔を見上げている。
ルナは頷いた。
「……あの中に、“沈黙”の源がある。壊さなきゃ、世界の音が……」
三人は、重い扉を押し開けた。
きしむ音は一瞬で空間に吸い込まれ、跡形もなく消えた。
塔の中は、音が存在しない「無響空間」だった。
階段を上るたび、空気が冷たくなっていく。
壁には譜面のような模様が刻まれ、それが月光に反射して淡く光る。
だが、それは通常の譜面とは逆――音符が上下反転し、拍子も乱れていた。
まるで世界そのものが、ひっくり返っていくような感覚。
「……譜面が逆さだ」
カイルが小声で言った。
「感情の流れが、下から上に……いや、違う、時間の向きが逆転してる……」
ノアが立ち止まる。
「足元を見て」
床一面に、幾重にも重なった譜面の輪が描かれていた。
一歩踏み出すたびに、輪が波紋のように広がり、階段の先の空間がゆらりと揺れる。
まるで、塔そのものが「音」で構成された巨大な楽器のようだった。
ルナは目を閉じた。
耳ではなく、譜面で“聴く”。
逆さの旋律が、塔全体を這うように響いている。
それは不気味で、美しく、そして――懐かしかった。
(……この音、知ってる……)
彼女の胸に、幼い夜の記憶が蘇る。
燃える家。泣き声の消えた夜。世界が無音になった、あの瞬間。
その奥で、確かに鳴っていた“逆さの旋律”――あれは、塔の音だったのだ。
中層にたどり着くと、空間が突然、開けた。
壁も天井も見えず、黒い譜面の光だけが浮遊している。
まるで空間そのものが「譜面」になったような異様な場所だった。
「……迷宮だな」
カイルが息を呑む。
譜面の道がいくつにも枝分かれし、どこへ進んでも同じような光景が続いていく。
「ここは、“音”で道を選ぶ場所」
ルナは《ハーモナイト》を手に取った。
逆さの譜面が、彼女の無音に触れた瞬間――波紋が広がる。
無音と逆音が干渉し、微かな光が一筋だけ、奥へと伸びた。
「……この道だ」
三人はその光をたどり、迷宮の中を進んでいく。
進むごとに、塔の譜面が少しずつ濃くなっていく。
まるで、誰かの“心の奥”に入っていくようだった。
やがて、巨大な扉の前にたどり着いた。
銀色の譜面が刻まれ、中心には「沈黙の鍵」と呼ばれる模様が描かれている。
ヴァレリオが言っていた、“空白を壊す最初の門”。
カイルが肩をすくめる。
「鍵穴なんてないな。叩いても、開きそうにないぞ」
ノアは扉に手を当て、目を細めた。
「……これは、音じゃ開かない。“共鳴”だ」
ルナは深呼吸をした。
(沈黙は、拒絶じゃない。聴き合う空間……)
《ハーモナイト》を掲げ、無音の譜面を展開する。
カイルの熱い旋律、ノアの静かな旋律、それにルナの無音が重なり――
塔全体が、一瞬だけ震えた。
透明な和音が空間に響き、扉の譜面がゆっくりと反転していく。
逆さだった音が正位に戻り、鍵の模様が淡く光る。
扉が、音もなく開いた。
奥には、白いホールが広がっていた。
そこには何もない――ただ、天井から逆さに吊るされた巨大な譜面だけが、静かに揺れていた。
(……これは、“私”の譜面……?)
譜面は、ルナの無音と同じ震え方をしていた。
そして、その中央に――ヴァレリオの影が一瞬、揺れた。
「……よく来たな、沈黙の調律師」
その声は、塔そのものから響いていた。
ルナは一歩、前に進む。
胸の奥で、無音が静かに震えていた。
(――ここから、世界が変わる)




