調律師、沈黙の会議へ
学院中央棟の最上階。
月光を取り込むガラスの天井の下で、学院会議が開かれていた。
長机の上には無数の譜面と魔力計が並び、教師たちの表情は一様に硬い。
空気には張り詰めた弦のような緊張が漂っていた。
議長席に座るのは、学長オルグレイン。
白髪の老人は、沈黙のまま一枚の報告書を手にしていた。
その報告書には――“無音の調律術による暴走事例”と記されている。
「……以上が、ルナ・ミレイユ=クラウスによる実験記録です」
報告を終えた研究主任の声は淡々としていた。
しかし、その言葉の一つひとつが、まるで冷たい刃のように会議室の空気を切り裂いた。
「魔力暴走の危険性は明白だ」
「無音を扱うなど、愚行に等しい」
「協会への報告義務を怠れば、学院の存続にも関わるぞ」
教師たちの声が次々と重なり、低い不協和音となって広がる。
議場の片隅で、それを聞いているルナの胸は冷たく締め付けられた。
彼女の足元には、ひときわ白く輝く《ハーモナイト》。
それはまるで、主の動揺を映すかのように微かに震えていた。
(……やっぱり、怖がられてる)
ルナは唇を噛んだ。
彼女の“無音の調律”は、従来の理論では説明できない。
音を消し、沈黙の中から旋律を呼び戻すという異端の術。
一度でも暴走すれば、周囲の音そのものを奪ってしまう。
学院が恐れるのも当然だった。
だが――彼女の背後には、三つの影が立っていた。
カイル、ノア、そしてレオン。
それぞれが異なる表情で、同じ方向を見つめている。
「発言を許可する」
学長の声が響いた。
カイルが立ち上がり、会議室の中央へと歩み出た。
「危険だからといって、拒絶するのは簡単です。
けれど、“無音”を恐れるあまり、音を閉ざすのは違う」
彼の声は真っ直ぐだった。
教師のひとりが眉をひそめる。
「カイル・アーヴィング、君は学生だ。発言を慎め」
「学生だからこそ言えます。
あの術で、僕は救われたんです。ルナは、壊れた譜面を“聴き取った”」
会議室がざわめいた。
オルグレイン学長が目を細め、低く問う。
「壊れた譜面を……聴き取った、だと?」
「はい。理論では説明できない。でも、事実です」
ルナは驚いて彼を見る。
カイルの声には一切の嘘がなかった。
「彼女の“無音”は、破壊じゃない。治癒です。
沈黙の中で音を受け止める力なんです」
教師たちは互いに視線を交わし、ひそひそと議論を始めた。
だが、レオンが静かに口を開いた。
「理論上、無音の調律は不安定だ。
だが、我々が定義できないという理由で、封印するのは愚かだ」
「レオン……」
ルナは彼の言葉に息をのむ。
冷静な理論派の彼が、自分を庇うなど想像もしていなかった。
「音楽は常に未知を孕む。
新しい調律を恐れていては、調律師である意味がない」
その言葉に、ノアが続いた。
彼はただ一歩前に出て、短く言った。
「沈黙を恐れる者に、音は聴こえない」
その瞬間、議場の空気が変わった。
それまでの喧騒が嘘のように消え、誰もがノアを見た。
無音の調律師――彼の言葉には、確かな説得力があった。
オルグレイン学長は、しばし目を閉じた。
そして静かに口を開く。
「……なるほど。
確かに“音を奪う力”は危険だが、同時に“音を取り戻す力”でもあるというわけだな」
沈黙。
やがて、老学長の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「ルナ・ミレイユ=クラウス。君に再調律の機会を与える。
だが、条件がある。次の満月までに、“音と沈黙の共存”を証明してみせなさい」
会議室がどよめいた。
ルナは立ち上がり、深く頭を下げる。
「……はい。必ず、証明してみせます」
その声は震えていたが、確かに響いた。
《ハーモナイト》が光を放ち、会議室の壁に微かな波紋が走る。
それはまるで、沈黙が音を受け入れる瞬間のようだった。
教師のひとりが思わず呟く。
「……聴こえた、か?」
誰も答えない。
だが、その場にいた全員が、確かに“何か”を感じ取っていた。
カイルがルナの隣に立つ。
「これが、君の“音”だよ」
「ううん……みんなの、だよ」
ルナは微笑み、月光の下で譜面を閉じた。
その表情は、恐れよりも希望に近かった。
こうして、学院は再び動き出す。
無音と音の狭間で、世界の調律は新たな段階へと進み始めた。




