幻奏の種、目覚める
辺境の村の夜は、静かだった。だがその静けさは安らぎではなく、何かが目覚める前の凝視のようだった。風は薬草の匂いを運び、月は低く、冷たく光る。
ルナ・ミレイユ=クラウスは、崩れかけた薬草小屋の奥に静かに佇んでいた。足元の譜面はまだ整いきらず、彼女の無音は微かに震えている。眼前に残った濁りの残滓が、月光に黒く滲んで見えた。
(この旋律、毒のそれとは違う――)
彼女の胸の奥で、譜面が不意にざわめいた。濁りの中に混じるのは、よく知る“幻”の匂い。記憶が、薄く逆流するように押し寄せた。
壁の裏に、黒い結晶が埋もれているのを見つけた。指先が触れると、結晶は冷たく、わずかに振動した。その振動は音ではなく、空気の譜めきだった。ルナは手を引かず、結晶を取り出す。
黒い結晶――幻奏の種。魔力の濁りが結晶化したもの。彼女はその存在を、無言で読み取った。かつて幻奏を撒いた者の残滓。ヴァレリオの残響がここに残っている。
ノアが静かに彼女の隣に寄り、影のように立つ。彼の譜面はいつも通り無音だが、今は――ほんのわずかに、低い揺らぎが生じていた。ルナの無音と触れた瞬間、その揺らぎはかすかに共鳴する。
カイルが慌てて駆け寄る。掌に抱えた瓶が、ほんの少しだけ光を反射した。彼の譜面は乱れ、薬術師の専門的な感応が全身を走る。
「反応が強すぎる。普通の毒草とは違う……」
カイルの言葉は短い。だが彼の譜面は、警告のリズムを刻んでいる。彼の手が震えるその様が、ルナには一種の旋律として届いた。
レオンは壁に寄りかかり、淡い判定をするように結晶へ手を差し出した。彼の譜面は相変わらず緻密だが、端に見えるわずかな乱れが、彼の眉間の皺として現れている。完璧な譜面に、触れられた跡が残ったのだ。
(ヴァレリオの断片……)
レオンの瞳が冷たく光る。彼の手に触れたとき、結晶はかすかにひびを入れたように見えた。黒い裂け目から、細く、けれど確かに黒い譜面の糸が滲み出す。
空間が一瞬、陰影を失い、歪む。壁の向こうから過去の記憶の断片が湧き上がるように、生々しい幻が流れ込む。村の遠い子供の笑い、崩れる屋根、名前の呼び声――それらが断片的に重なり合い、聴く者の譜面を引き裂く。
ルナは結晶を抱え、無音の譜面を広げる。音はない。だが、彼女の掌から漂う無音が、裂け始めた幻の端をそっと包み込むように伸びていく。黒い糸と白い余白が、互いに触れ合う。
「召喚――The Cyrkle《Turn-Down Day》」
ルナが低く呟くと、柔らかな現実世界の旋律が空間に広がった。その旋律は風のように結晶の周囲を撫で、黒の鋭い縁が淡い青に溶けていく。幻の色が、一瞬だけほどける。
それは調律だ。濁りを斬るのでも、消すのでもない。濁りを受け止め、旋律として再編すること。ルナの無音は、そこに微かな色を宿し、結晶の振る舞いを変えていった。
ノアがふと手を差し、ルナの側に寄り添う。彼の無音が、彼女の無音を支える。カイルは薬草の瓶を慎重に棚に戻し、レオンは結晶を取り巻く残響を解析するように視線を巡らせる。
黒い裂け目は静まり、結晶は冷たいままだが、その表面に淡い青の筋が走った。ルナの譜面が、銀と青へと色づいていく。
(これで、再生の余地が)――ルナの心に浮かんだ短い言葉は、同時に危機の予感でもあった。幻奏の種は消えたわけではない。封じられたにすぎない。その種が目覚めたことは、より大きな波の始まりに過ぎない。
夜空を見上げると、遠くの空に微かな濁りが走るのが見えた。それは、世界のどこかで新たな影が動き始めた合図だった。
「ここで終わりではない」――レオンの声は低く、しかし冷静だ。彼の譜面がわずかに震え、決意のリズムを刻み始めた。
ルナは結晶を握り直し、ノアに視線を向ける。二人の無音が、その場の静けさを支えるように並んで立っていた。カイルは薬草を抱え直し、足を踏みしめる。
辺境の村の夜は、再び静寂を取り戻したように見えた。だがその静けさは脆く、また何かが生まれようとしている予感を孕んでいた。
ルナの譜面は、銀と青に染まり、淡い再生の光を放つ。彼女の中で、音はほんの少しだけ色づいた。だがその色は、新たな試練と出会いの始まりを告げる色でもあった。
(――私は、調律を続ける)
彼女は静かにそう誓い、月光の中で結晶を胸に抱いた。




