調律師、学院に入る
魔術学院の門は、まるで巨大な譜面台のようだった。
白銀のアーチには、魔力を帯びた音符が浮かび、風に揺れるたびに微かな旋律を奏でている。
それは歓迎の調べではなく、選別の音。
この門をくぐる者の“譜面”を読み取り、学院にふさわしいかを見極める。
ルナ・ミレイユ=クラウスは、無音のままその門をくぐった。
音は鳴らなかった。
だが、門は静かに開いた。
「……やっぱり、譜面がない」
「本当に調律師なの? ただの魔力障害じゃ……」
「でも、あの晩餐会で毒を飲んだって……」
学院の廊下を歩くたび、囁きが背中に刺さる。
ルナの譜面は“視えない”。
それは、魔術師として致命的な欠陥とされていた。
だが彼女は、気にしていないように見えた。
むしろ、静寂を好むように、足音すら立てずに歩く。
(ここは、音が多すぎる)
感情が溢れ、魔力が騒ぎ、譜面が乱れる。
学院は、まるで“調律されていないオーケストラ”のようだった。
「君が、ルナ・ミレイユ=クラウスか」
声をかけてきたのは、白衣を着た青年だった。
赤毛を無造作に束ね、瞳は琥珀色。
彼の譜面は、熱を帯びた不規則なリズムを刻んでいた。
「僕はカイル。薬術師志望。君の“毒愛”には興味がある」
「……毒愛?」
「毒を“美しい旋律”と呼んだだろ? あれ、普通じゃないよ」
ルナは少しだけ首を傾げた。
「毒は、濁った魔力。けれど、それを調律すれば……純粋な旋律になる」
「やっぱり変わってるな。……でも、嫌いじゃない」
カイルは笑った。
その笑顔は、譜面の乱れと同じくらい、まっすぐだった。
初日の授業は、魔力感知と譜面読解の基礎。
講師が黒板に浮かべた譜面は、感情の波を視覚化したものだった。
生徒たちはそれを読み取り、魔術を発動する。
「では、クラウス嬢。あなたの譜面を見せてくれますか?」
講師の声に、教室が静まり返る。
ルナは立ち上がり、調律結晶を手に取った。
だが、何も起きない。
「……やっぱり、無音だ」
「魔力がないのかも」
「いや、毒を調律したって話は……」
ざわめきが広がる中、ルナは静かに目を閉じた。
(音は、外にあるものじゃない。内にある)
彼女の中に、微かな旋律が生まれる。
それは、誰にも聴こえない。
けれど、確かに“存在する音”。
ハーモナイトが淡く光った。
譜面が、空間に浮かび上がる。
それは、無音の譜面。
だが、そこには“調律の余白”があった。
講師が息を呑む。
「……これは、未完成の譜面? いや、違う。これは……」
「“無音”という旋律です」
ルナの声は、静かに響いた。
その日の夜、学院の屋上でルナは月を見上げていた。
「君の譜面は、僕にだけ聴こえるかもしれない」
背後から聞こえた声に、ルナは振り返る。
そこにいたのは、黒髪の青年。
無口な護衛騎士――ノア。
彼の譜面もまた、無音だった。
「……あなたも、無音?」
「だから、君の音がわかる気がする」
ふたりの間に、音はなかった。
だが、確かに“共鳴”があった。
それは、手を繋ぐよりも深い接触。
譜面が、重なり始めた瞬間だった。




