調律師、旅立つ
学院の門が、静かに開いた。
それは、別れの音ではなく、始まりの旋律だった。
魔奏病の調律を終えたルナ・ミレイユ=クラウスは、魔術師協会からの正式な依頼を受けていた。
「辺境の地に、濁りが残っている。君の譜面なら、調律できるはずだ」
協会の使者の言葉に、学院の空気がざわめいた。
ルナは、世界を調律した“月奏の調律師”。
だが、彼女自身の譜面は、まだ完成していない。
「……私の始まりの場所。なら、私が終わらせる」
彼女はそう呟き、ハーモナイトを胸に抱いた。
学院の中庭には、見送りの旋律が漂っていた。
学生たちの譜面が揺れ、感情が色づく。
喜び、寂しさ、憧れ、そして――恋。
ノアが、静かにルナの隣に立った。
彼の譜面は、いつも通り無音だった。
だが、ルナの譜面と重なったときだけ、微かに震える。
「君の音は、僕が守る」
その言葉に、ルナの譜面が淡く揺れた。
カイルが、荷物を抱えて駆け寄ってきた。
「俺も行く! 毒草の調査は、薬術師の仕事だ!」
彼の譜面は、熱く、乱れていた。
だが、そこには確かな“想い”があった。
「君の音は、俺の譜面を整えてくれる。だから、俺も君を支える」
レオンは、少し離れた場所から見つめていた。
彼の譜面は、完璧すぎて共鳴しない。
だが今は、微かに揺れていた。
「君の譜面は、完璧じゃない。でも、美しい。……僕は、それに嫉妬してる」
彼の声は、静かだった。
だが、その譜面には、確かな“共鳴の予兆”が宿っていた。
ルナは、三人の譜面を見つめた。
無音の共鳴。
熱の感情。
冷静な揺らぎ。
そして、自分の譜面。
「……私は、調律師。世界を整えたけれど、まだ“私自身”を調律していない」
彼女は、ハーモナイトを空に掲げた。
空間に、淡い旋律が広がる。
それは、旅立ちの音。
それは、再生の前奏。
「召喚――Spanky and Our Gang《Sunday Mornin’》」
空間が、静かに震えた。
現実世界の60年代ソフトロック。
柔らかなコーラスと、穏やかなコード進行。
それは、旅立ちの朝にふさわしい旋律だった。
空気が澄み、譜面が整っていく。
学院の空気が、静かに色づいた。
「……この音は、私の心の底にあった」
ノアが頷く。
「君の譜面は、沈黙の中で響いてる」
カイルが笑う。
「静かすぎて、逆にうるさいくらいだな」
レオンが呟く。
「……その音に、僕も触れてみたい」
学院の門が、静かに開いた。
それは、調律師の新たな旅の始まり。
その夜、ルナは月を見上げた。
「……私の譜面は、まだ完成していない。
でも、誰かと重ねることで、きっと響く」
そして、彼女の譜面に、深い銀色が差した。
それは、沈黙の強さ。
それは、旅立ちの覚悟。
それは、恋と再生の旋律だった。




