魔奏病と最後の調律
夜の演習室は、静まり返っていた。
魔力灯の光が床の譜面を淡く照らし、白銀の線が夜気の中に浮かび上がっている。
レオン・アルヴェールは、一人で立っていた。
彼の譜面は、相変わらず完璧だった。
音の高さ、リズム、構造。すべてが整然とし、わずかな乱れすら許されない。
この譜面こそが、自分の“存在”そのもの。
幼い頃から、そう教え込まれてきた。
「感情は、譜面を濁らせる」――その言葉を何度も胸に刻み、感情を削ぎ落としてきた。
だが――
(あの日、確かに“音”が混ざった)
共鳴演習。無音の譜面と触れ合った一瞬。
完璧な旋律に、透明な和音が差し込んだ。
それはノイズでも破綻でもなく、“自分の譜面の奥から鳴った音”だった。
その記憶が、夜になっても消えない。
「……くだらない」
レオンは小さく呟いた。
譜面がわずかに震える。だが、彼はそれを無理やり押さえ込んだ。
そのとき、扉が開いた。
静かな足音。
振り返ると、ルナ・ミレイユ=クラウスが立っていた。
「……こんな時間に、何をしてるの?」
「君こそ」
レオンは冷たく言い返した。
だがその声の端に、ほんの僅かな揺れがあった。
「私は……調律の練習」
ルナは譜面を開き、《ハーモナイト》を掲げた。
彼女の譜面は、夜の空気に淡い光だけを放っていた。音はない。
だが、レオンの完璧な旋律の隣に並んだ瞬間、空間に“温度差”が生まれる。
「……相変わらず、音がない」
「ええ。でも、あなたの音は、揺れてる」
その言葉に、レオンの瞳が一瞬だけ動いた。
譜面の端に、ごく小さな波形が浮かんでいた。
彼自身も気づいていなかった“震え”。
「僕の譜面が、揺れるはずがない」
「でも……あの日、確かに共鳴した」
ルナは一歩、彼に近づいた。
譜面が重なる。完璧と無音。
再び空間がきしむ――だが、前とは違っていた。
氷の表面に、細い亀裂が走るような、かすかな音が響いたのだ。
(……何だ、これは)
レオンの胸が、わずかに鳴った。
その音は、譜面には記されていない。
だが確かに、自分の“内側”から聞こえた。
「……あなた、怖がってる」
ルナの声は、静かだった。
攻めるでも、責めるでもなく、ただ“聴いている”声。
「何を……」
「譜面が揺れること。音が混ざること」
沈黙。
レオンは《ハーモナイト》を強く握りしめた。
譜面の亀裂が一瞬だけ広がり、透明な光が漏れる。
だが彼は、それを一気に閉ざした。
「……君とは共鳴しない」
レオンは背を向けた。
その声音には、冷たさと――ほんのわずかな動揺が混ざっていた。
扉が閉まったあと、演習室には静寂が戻った。
だが床に浮かぶ譜面の“氷”には、確かに細いひびが残っていた。
(……氷の譜面に、音が届いた)
ルナはそのひびを見つめながら、小さく息を吐いた。
夜の風が、譜面をめくるように吹き抜けた。




