Tomorrow Never Knows
学院の空気は、壊れかけのレコードのように軋んでいた。
昨日の幻奏事件の余波が、まだ空間の底に残っている。
譜面は正しく響かず、風の音すら濁って聞こえた。
空を見上げると、雲の縁に“銀の譜線”がかすかに走っている。
あの日、ヴァレリオが消える直前に残した、幻の余韻。
それはまだ、この世界のどこかで“再生”され続けていた。
ルナは中庭に立ち尽くしていた。
《ハーモナイト》を手にしたまま、息をするのも忘れるほどの静けさ。
周囲の譜面がざわめき、どこかで笑い声が響く――はずなのに、音が届かない。
まるで世界が、自分だけを“ミュート”しているようだった。
(……また、無音になっていく)
胸の奥が冷たく沈み込む。
あの夜の記憶――家が燃え、母の声が途切れた瞬間と同じ、音の消失。
耳鳴りだけが残り、空気の震えが遠のいていく。
けれど今回は違う。
沈黙の奥に、“誰かの呼吸”のようなものが混ざっていた。
「……聞こえる?」
振り向いた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
校舎が波打ち、空が裏返る。
譜面が崩れ、文字が逆流し、音が色を失っていく。
それは幻奏――ヴァレリオの残響が再起動した瞬間だった。
「また……来たのね」
空間の裂け目から、黒いローブの男が歩み出る。
仮面の下の瞳が銀色に揺れ、彼の周囲では無数の譜面が逆再生されていた。
破壊ではなく“巻き戻し”。
音の流れそのものが、過去へと遡っていく。
「久しいな、沈黙の調律師」
ヴァレリオの声は、遠くの鐘のように響いた。
「この世界の音は脆い。感情が一つ揺らげば、旋律は崩壊する。
だから私は、壊れる前に“止める”ことにした。
――幻で固定する。それが、調律よりも確かな安定だ」
「……それは、音を殺すことです」
ルナは《ハーモナイト》を構える。
無音の譜面が淡く光り、彼女の周囲に薄い波紋が広がる。
しかしその光は、すぐにヴァレリオの幻奏に呑まれた。
幻奏が“鳴り始めた”のだ。
低いベースが空間の底を叩き、無数の音が逆流する。
The Beatles《Tomorrow Never Knows》。
だがそれは歌ではなく、狂ったループ。
同じ小節が何度も繰り返され、世界が自分の記憶をコピーし始める。
(……これは、夢の中? 違う。夢が、現実を食べてる)
彼女は膝をついた。
足元の譜面が液体のように溶け、言葉が読めなくなっていく。
空間が回転し、時間が巻き戻り、
今ここにいる“私”が、少しずつ別の私に置き換えられていく。
「君の無音は、空白だ。
だから私は、その空白に“幻”を流し込める」
ヴァレリオの手が動くたび、幻の譜面が広がっていく。
そこには、かつての学院――笑うカイル、無音で微笑むノア、そして幼い日のルナ。
懐かしく、痛ましい景色。
(やめて……それは、私の記憶じゃない)
「違わないさ。記憶とは“響きを選んだ夢”にすぎない。
ならば、君が聞きたくなかった音を、私が聴かせてやろう」
空間が反転した。
風景がモノクロに変わり、無数のルナが並んで立っている。
どれも音を持たず、どれも泣いている。
無音の海に沈み込むような錯覚。
心臓の鼓動すら、他人のリズムに奪われていく。
――その時、微かな音がした。
ほんのひとつ、透明な音。
まるで一滴の水が静寂に落ちるような、優しい音。
ルナは顔を上げた。
幻の群れの向こうに、ノアが立っていた。
彼の譜面は無音――けれど、確かに“響いて”いた。
「君の音は、まだここにある」
ノアの声は低く、柔らかく、どんな幻よりも現実的だった。
ヴァレリオが顔をしかめる。
「無音同士の共鳴など、ありえない!」
「ありえないことが、“音楽”です」
ルナの声が震えた。
《ハーモナイト》が光を放つ。
幻の譜面と無音の譜面が衝突し、空間が激しく弾ける。
逆再生の音が止まり、ループが切断された。
ヴァレリオの幻奏が乱れ、周囲の景色が崩壊していく。
ルナの髪が風に舞い、ノアの譜面が彼女を包む。
無音と無音――二つの沈黙が重なり、そこから新しい音が生まれた。
――透明な和音。
それは、まだ言葉にも名前にもならない音だった。
だが確かに“生きている”。
幻の空間にひびが走る。
ヴァレリオの姿が、音とともに揺らいでいく。
「……面白い。沈黙に音を生ませるか。だが――まだ終わりではない」
その言葉と共に、彼の姿は霧のように消えた。
幻奏が崩壊し、学院の風景がゆっくりと戻っていく。
空には、銀の線がかすかに残ったまま。
それは、再生が完全には終わっていない証。
ルナは膝をつき、静かに息を吐いた。
手の中の《ハーモナイト》が微かに震えている。
ノアが近づき、そっとその手を包んだ。
「大丈夫か」
「……はい。
でも、あの音は、きっとまた戻ってくる」
ノアはうなずいた。
「その時は、僕たちで“調律”する」
ルナは顔を上げる。
灰色の空の向こう、雲の裂け目からわずかな光が差していた。
その光が譜面に落ち、淡く色づく。
(音は、壊れても、また生まれる)
風が吹いた。
沈黙の中に、小さな旋律が混ざっていた。
それは、涙にも似た優しい音。
“Tomorrow Never Knows”――
その言葉の意味を、ルナは初めて理解した気がした。
世界は壊れても、音は生まれ続ける。
そして、明日という譜面は、誰にもまだ読まれていない。




