毒入りスープは恋の味?
魔術師協会主催の晩餐会は、音のない華やかさに満ちていた。
天井には魔力灯が浮かび、空間には貴族たちの“譜面”が漂っている。旋律は感情を映し、色とりどりの音が視覚化されていた。喜びは明るい長調、嫉妬は濁った短調、誇りは高音のアルペジオ。誰もが自らの感情を飾り、魔力を演奏するように振る舞っていた。
その中に、ただ一人、音を持たない少女がいた。
ルナ・ミレイユ=クラウス。
辺境の薬草村から招かれた、異端の調律師。
彼女の譜面は、無音だった。
「……このスープ、濁ってる」
銀のスプーンを持ち上げたルナの声は、まるで風のように静かだった。だがその一言は、空間に漂う譜面たちをざわめかせた。
彼女の前に置かれたスープには、魔力の“濁り”が潜んでいた。旋律が歪み、譜面が乱れている。毒だ。だが、誰もそれに気づかない。
「お嬢さん、それはただの香草の香りだよ。辺境の人間には珍しいかもしれないが……」
老魔術師が笑いながら言った。彼の譜面は、上滑りするような軽い音を奏でていた。だがルナは、誰の言葉にも耳を貸さず、スプーンを口に運んだ。
一口。
二口。
三口。
空間が震えた。
ルナの譜面が、無音のまま、淡く光った。
濁った魔力が、彼女の中で“調律”されたのだ。
「……美しい旋律だった」
彼女はそう言って、静かに微笑んだ。
その瞬間、周囲の譜面がざわめき、感情が乱れた。恐れ、驚き、そして――興味。
「君は……何者だ?」
協会の幹部が立ち上がる。彼の譜面は、警戒の音を奏でていた。
ルナはスープ皿を置き、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、調律師。音を持たない譜面を、音に変える者です」
その言葉に、空間が静まり返った。
誰もが彼女の譜面を見つめる。だが、そこには何もない。無音の譜面。だが、確かに“何か”が響いていた。
その夜、ルナは魔術学院への特別編入を命じられた。
「君のような存在は、前例がない。だが……見過ごすわけにもいかない」
幹部の言葉は、評価と警戒が入り混じっていた。
ルナはただ一言、「はい」とだけ答えた。
馬車の中、ルナは窓の外を見つめていた。
夜の空には、月が浮かんでいる。静かな光。音のない輝き。
「……月の譜面は、いつも無音」
彼女はそう呟いた。
その言葉に、誰も答える者はいない。だが、彼女の胸の奥では、微かな旋律が生まれようとしていた。
ふと、彼女は懐から小さな瓶を取り出した。中には、乾いた薬草が詰まっている。故郷の村で採ったものだ。
(あのときも、私は……)
記憶が、音もなく蘇る。
幼い頃、魔力が暴走し、家族を失ったあの夜。
泣き叫ぶ声も、燃え落ちる家も、すべてが“無音”だった。
だが、彼女の中には確かに旋律があった。
それは、誰にも聴こえない、彼女だけの音。
「毒は、私の旋律」
そう呟いたとき、馬車の中に淡い光が灯った。
譜面が、ほんの一瞬だけ、色を帯びたように見えた。
学院の門が見えてきた。
そこには、彼女の“無音”を恐れず、共鳴しようとする者たちが待っているかもしれない。
あるいは、彼女を排除しようとする者たちかもしれない。
だが、ルナは恐れていなかった。
「私は、調律する。毒も、感情も、世界さえも」
その瞳には、静かな決意が宿っていた。
そして、まだ知らない。
その譜面に、初めて“恋の旋律”が重なる日が来ることを。