第四章:断ち切る想い、夕霧の決意
疫病が去り、都に一見の平穏が戻るにつれ、市井の人々の暮らしは、むしろ以前よりも厳しさを増していた。貴族たちの監視の目は強化され、身分制度の壁は、以前にも増して高く、厚くそびえ立っていた。夕霧が暮らす長屋の周辺も、以前のように貴族の屋敷から抜け出した者が紛れ込むことは稀になり、見慣れない監視の目が光るようになっていた。
夕霧は、小夜との密やかな交流が途絶えてから、すでに半月以上が経っていた。最初に小夜が訪れなくなった時、夕霧はただ「忙しいのだろう」と考えていた。しかし、日が経つにつれて、彼女の胸に不安が募り始めた。小夜との時間は、夕霧にとって、貧しい生活の中で見つけた、唯一の光であり、心の安らぎだった。小夜が語る貴族の暮らしは、夕霧にはまるで別世界の物語のようだったが、その中に垣間見える小夜の純粋な心と、市井の人々への眼差しは、夕霧の閉ざされた心を少しずつ開いていった。
「夕霧姉さん、最近元気がないね」
梅が、心配そうに夕霧の顔を覗き込んだ。源太もまた、いつもの明るさを失った夕霧の姿に、何かを感じ取っていた。
「大丈夫だよ、梅。ただ…少し、疲れているだけさ」
夕霧は曖昧に答えた。小夜のことは、誰にも話せなかった。特に、小夜が少納言家の姫君であることは、源太や梅には決して知られてはならない秘密だった。知られれば、彼らにも危険が及ぶ。
夕霧は、日雇いの仕事で重い荷を運びながら、ひたすら小夜のことを考えていた。彼女が来なくなったのは、縁談が進んでいるからかもしれない。貴族の姫君が、自分のような身分の低い者といつまでも交わりを続けるなど、あり得ないことなのだ。頭ではそう理解しているのに、心が激しく痛む。
ある夜、夕霧は玄斎の庵を訪れた。玄斎は、相変わらず無口に薬草を整理していた。
「玄斎様…」
夕霧は、意を決して切り出した。
「わたくし…このままでは、いけない気がいたします」
玄斎は、ゆっくりと顔を上げた。彼の深い眼差しが、夕霧の心の奥底を見透かすようだった。
「何が、お前をそう思わせる」
玄斎は、短い言葉で促した。夕霧は、小夜との出会いからこれまでのこと、そして、小夜への想いを、初めて玄斎に打ち明けた。言葉にするたびに、胸の奥が締め付けられ、涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
「姫様は、わたくしに…この世には、身分だけではない、真の美しさがあると教えてくださいました。しかし、わたくしのような者が、姫様の隣にいることなど、許されるはずがございませぬ。むしろ、わたくしがそばにいれば、姫様にご迷惑をかけてしまう。わたくしは…姫様を、不幸にはしたくありません」
夕霧の言葉は、震えていた。小夜と出会ってから、彼女の心は、貧しい暮らしの中でも希望に満ちていた。しかし、その希望が、小夜を危険に晒すかもしれないという現実が、夕霧を打ちのめした。小夜の顔に悲しみの影が差すことを想像するだけで、夕霧の心は引き裂かれるようだった。
玄斎は、黙って夕霧の言葉に耳を傾けていたが、やがて、静かに口を開いた。
「世の理は、常に変わらぬ。貴き者は貴く、賤しき者は賤しい。それは、人の力では動かせぬ大きな流れだ。お前は、その流れに逆らおうとしている」
玄斎の言葉は、夕霧の胸に突き刺さった。それは、夕霧がこれまで生きてきた中で、何度も肌で感じてきた、残酷な現実だった。それでも、小夜と出会い、彼女の純粋な心に触れたことで、その現実を一度は忘れかけていたのだ。
「しかし、わたくしは…」
夕霧は、反論しようとしたが、言葉に詰まった。玄斎は、夕霧の視線を受け止めたまま、続けた。
「だが、人の心は、その理とは別のものだ。お前がその姫君を思う心は、偽りではない。それは、尊いものだ。しかし、その尊い心が、相手を傷つけることもある。お前が、その姫君を心から大切に思うのなら、その先に何が待っているのか、よく見極めねばならぬ」
玄斎の言葉は、夕霧の心を深く抉った。彼は、小夜への想いを諦めろとは言わなかった。しかし、その想いがもたらすであろう結果を、夕霧自身に突きつけさせたのだ。
庵を出た夕霧は、夜の闇の中を彷徨った。梅雨の晴れ間、空には朧月が浮かび、都の屋敷からは、遠く笙の音が聞こえてくる。その音は、小夜の暮らす世界から響いているかのようだった。
夕霧は、自身がこの都の片隅で、どれほど無力な存在であるかを痛感した。自分には、小夜を守る力がない。彼女が選ぶべき道は、自分のような者とではなく、高貴な身分にふさわしい源経隆との縁談なのだ。それが、小夜の幸せに繋がる道なのだ。
夕霧は、自身の胸に手を当てた。そこには、小夜と交わした和歌が記された文が隠されていた。
「闇夜にも 星は輝く 名もなき草 踏まれし後に 花咲かすかな」
この歌を詠むたびに、小夜がどれほどその歌に心を動かされ、希望を見出してくれたかを思い出す。彼女の純粋な瞳、そして自分に向けてくれた優しい微笑み。それらが、夕霧の心を温かく包み込み、そして、激しく締め付けた。
夕霧は、覚悟を決めた。
「わたくしは…姫様を、守らなければならない。そのためならば…」
彼女は、文を強く握りしめた。その文を、このまま持ち続けることはできない。小夜への想いを、この心から断ち切らなければならない。それが、小夜を真に守る唯一の道なのだと、夕霧は自らに言い聞かせた。
夕霧は、小川のほとりへと足を向けた。夜の闇に紛れて、誰もいないことを確認する。そして、強く握りしめていた文を、ゆっくりと広げた。月明かりに照らされた紙には、小夜の美しい筆跡で、和歌が綴られている。その歌を、もう一度、目に焼き付けるように見つめた。
そして、迷いのない手つきで、その文を破り捨てた。小さな紙片は、風に舞い、小川の水の流れに乗って、闇の中へと消えていった。
夕霧の目から、一筋の涙が流れ落ちた。それは、小夜への想いを断ち切る、痛みに耐えながら流す涙だった。彼女は、自身がこの世で最も大切にしていた光を、自らの手で消し去ったのだ。
「姫様…どうか、お幸せに…」
夕霧の祈りは、夜の闇に溶けていった。しかし、その涙は、夕霧の心の中で、小夜への変わらぬ、そしてより深い愛情の証として、静かに輝き続けるのだった。彼女は、この日から、小夜への想いを秘めたまま、再び過酷な現実の中で、ただひたすらに生き抜くことを決意する。