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第二章:兄の疑念と迫る縁談

小夜さよが、身分を隠して市井に出て夕霧ゆうぎりと出会ってから、彼女の心には新たな光が宿った。屋敷での生活は以前と変わらず雅やかだが、小夜の瞳の奥には、どこか遠い世界を見つめるような輝きが増していた。それは、彼女の身近にいる者、特に兄の**朝臣あそん**には、明確な変化として映った。


朝臣は、日々の政務と疫病対策に忙殺されながらも、妹の異変に敏感だった。小夜の和歌は、以前にも増して市井の情景や人々の感情を色濃く反映するようになり、その筆致にも力強さが宿っていた。何よりも、彼女の表情が以前より生き生きとし、時折見せる遠いまなざしに、朝臣は言い知れぬ不安を感じ始めた。


「小夜、最近、お前は何か変わったように見えるが…」


ある日の夕餉ゆうげの折、朝臣は切り出した。小夜は箸を止めて、兄を見た。彼の視線は鋭く、全てを見透かすかのようだった。


「兄上、そのようなことはございませぬ。ただ、この都の惨状を目の当たりにし、深く心を痛めているだけです」


小夜は平静を装って答えた。しかし、彼女の心臓は激しく鼓動していた。夕霧との密やかな逢瀬が、兄に気づかれているのではないかという焦りが募った。


「そうか。だが、お前の歌には、ただの哀しみだけではない、何か得体の知れぬ熱がこもっている。まるで…何かに触れたかのような」


朝臣は、深く追求はしなかったが、その言葉には明らかな含みがあった。彼は妹の聡明さを誰よりも理解している。だからこそ、小夜が何かを隠していることにも気づいていた。彼は小夜の身分と立場を誰よりも重んじていたが、同時に妹の感情に敏感な兄でもあった。この変化が、小夜の幸せ、ひいては家門の行く末に何をもたらすのか、朝臣の胸には重い不安が広がった。


時を同じくして、小夜の縁談の話が急速に進展していた。相手は、帝の血縁にも近い名家である左大将家の若君、源 経隆(みなもと の つねたか)。彼は若くして位を持ち、その容姿も雅やかで、まさに貴族の理想を体現するような人物だった。少納言家と左大将家の結びつきは、両家の繁栄を確固たるものにする、申し分のない縁談と見なされていた。


お芳は、この縁談の進展に安堵し、喜びを隠せない様子で小夜に語りかけた。


「姫様、誠におめでたいことでございます。源経隆様のようなお方が、姫様をお望みくださるとは、まさに運命でございましょう。きっと、姫様は幸せになられます」


お芳の言葉には、小夜の将来への純粋な願いが込められていた。しかし、小夜の心は、全く別の感情で満たされていた。経隆は、確かに貴族として完璧な人物だった。彼の送る文には、教養と風雅が溢れていた。しかし、そこには小夜が夕霧との交流で感じたような、生身の感情や、魂の響きを感じることはできなかった。彼の言葉は、まるで絵巻物の中の人物が発する言葉のように、美しく、しかし遠く感じられた。


小夜は、経隆との顔合わせの際に、彼から贈られた香に息をのんだ。伽羅と沈香が複雑に調合されたそれは、確かに高貴で、洗練された香りだった。しかし、小夜の鼻腔に残る夕霧の素朴な香りの記憶とは、あまりにもかけ離れていた。夕霧の身につけた麻の匂い、薬草の青い匂い、そして汗の匂い。それらは決して高貴ではなかったが、小夜にとっては、経隆の洗練された香りよりもはるかに強く、深く心に刻まれていた。


経隆は、小夜の完璧な美しさに魅了されていた。彼は小夜を、自らの地位と家門にふさわしい、最高の伴侶だと信じて疑わなかった。彼は小夜と和歌を交わし、庭園を散策する機会を設けた。


「小夜殿の歌は、常に心惹かれるものがございますな。まるで、この御簾の向こうの世界を覗き見ておられるかのような…」


経隆はそう言い、小夜の和歌の才能を褒め称えた。しかし、彼の言葉には、小夜の歌に込められた、市井の人々への眼差しや、閉塞した貴族社会への問いかけを理解する深さはなかった。彼にとって、それは単なる雅な表現の一つに過ぎなかったのだ。


小夜は、経隆と接するたびに、自身の心の中に、夕霧への想いがどれほど深く根を張っているかを思い知らされた。経隆の完璧さが、かえって夕霧の持つ人間としての真実味を際立たせた。小夜は、経隆と結婚すれば、確かに安泰な未来が約束されるだろう。しかし、その未来は、彼女が求める「生」とはかけ離れたものに思えた。


兄の朝臣は、小夜と経隆の縁談が進むにつれて、妹の心が塞いでいくのを敏感に感じ取っていた。彼は妹の幸せを願っていたが、それが家門の繁栄と結びつくことが、必ずしも小夜自身の幸せとは限らないことに気づき始めていた。


ある夜、朝臣は小夜の部屋を訪れた。


「小夜、経隆殿との縁談、お前は本当にそれで良いのか」


朝臣は、妹の顔をまっすぐ見て尋ねた。小夜は顔を伏せ、何も答えられなかった。


「お前が何かを隠していることは知っている。疫病の混乱に乗じて、あの市井に出向いたこともな」


小夜ははっと顔を上げた。兄が、まさかそこまで気づいていたとは。


「なぜそのような危ない真似をした。お前は…何を見たのだ」


朝臣の問いに、小夜はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、葛藤と決意が入り混じった複雑な光が宿っていた。


「わたくしは…真実のせいを見ました。この屋敷の中では決して知ることのできない、人々の苦しみと、それでも失われない、人間としての光を…」


小夜は、夕霧との出会いを直接的に語ることは避けたが、彼女の言葉からは、出会いがもたらした心の変化が明確に伝わってきた。朝臣は妹の言葉に耳を傾けながら、自身の胸中にもまた、市井で見た人々の姿が去来するのを感じていた。彼は疫病対策で市井に足を踏み入れたことで、妹と同じように、貴族社会の常識だけでは測れない現実を目の当たりにしていた。


「お前は、この家門の姫君だ。我らは、家門の繁栄のために生きてきた。それが我らの定めだ」


朝臣は、自らに言い聞かせるように、妹に語りかけた。しかし、彼の声には、以前のような揺るぎない確信はなかった。妹の言葉が、彼の心の奥深くに、新たな問いを投げかけていた。彼は、妹の抱える秘密、そして、彼女の心を満たす正体不明の存在への疑念を深めながらも、それが何であるかをまだ突き止めることはできなかった。しかし、朝臣の直感は、妹の心が、既に別の場所に、別の誰かに囚われていることを感じ取っていた。縁談の日は刻一刻と迫り、朝臣もまた、家門の義務と、妹の心の狭間で、深く苦悩し始めるのだった。

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