序章:閉ざされた庭と開かれた瞳
平安京の深奥、左京一条三坊の広大な敷地には、白壁に囲まれた少納言家の屋敷が威容を誇っていた。朱塗りの門をくぐれば、白砂が敷き詰められた広庭に、手入れの行き届いた松や桜が季節の彩りを添え、池には優雅な曲線を描く橋が架かり、錦鯉がゆったりと泳ぐ。築山には苔むした石が配され、その奥には常に清らかな水音を響かせる遣水が流れ、風雅な趣を醸し出していた。広々とした母屋の桧皮葺の屋根は空に溶け込むように低く、その下には幾重もの部屋が連なり、夜には幽玄な灯りが漏れる。藤棚の下では女房たちが涼をとり、桜の季節には満開の花の下で歌会が催され、琴の音が夜空に響き渡る。そこは、雅やかなる貴族の暮らしが営まれる、外界から隔絶された楽園だった。
この屋敷の奥深く、日当たりの良い南向きの部屋に、少納言家の姫君、**小夜**は暮らしていた。御簾の向こうには、四季折々に表情を変える美しい庭が広がり、季節の移ろいを肌で感じることができた。春には梅が香を放ち、夏には睡蓮が水面に浮かび、秋には紅葉が錦を織りなし、冬には雪が庭園を白く染め上げる。小夜の部屋の周りは、絹の衣擦れの音と、女房たちのひそやかな話し声、そして伽羅や白檀の香が常に満ちていた。
小夜は今年で十六歳。まだあどけなさを残す顔立ちには、すでに貴族の姫君としての品格と、どこか憂いを帯びた聡明さが宿っていた。陶器のように白い肌は日差しを知らず、しなやかに伸びた黒髪は座れば畳に届くほど長く、その先端は僅かに波打つ。切れ長の瞳は澄んでおり、好奇心に満ちた輝きを湛えている。羅の衣を纏い、十二単の重みに慣れたその立ち居振る舞いは、どんな時も優雅で、まるで絵巻物から抜け出してきたかのようだった。しかし、その雅やかな姿とは裏腹に、小夜の心は常にどこか満たされない渇望を抱えていた。
「姫様、今宵は月がことのほか美しいと、源侍従様がおっしゃいましたわ」
小夜の傍らで、乳母の**お芳**が、湯気の立つ白湯を差し出しながら告げた。お芳は小夜が物心ついた頃からの世話役で、齢は五十を過ぎているが、矍鑠としており、常に小夜の身を案じ、時に厳しく、時に優しく見守ってきた。彼女にとって、小夜の存在は自分の人生そのものだった。少納言家に代々仕える家系の出であるお芳は、家門への忠誠心が人一倍強く、小夜が由緒正しき貴族の姫君として、何不自由なく幸せに暮らすことだけを願っていた。その「幸せ」とは、高貴な縁談に恵まれ、やがては立派な家柄の妻となり、子をもうけ、家名を高めることに他ならない。
「さようなら。けれど、この御簾越しでは、月も遠く、霞んで見えますわ」
小夜は呟き、そっと御簾の縁に指をかけた。月は確かに美しい。しかし、その光は屋敷の壁に遮られ、外の世界の広がりを感じさせるにはあまりにも小さかった。彼女は常に、この閉ざされた空間の外にある世界に思いを馳せていた。市井の人々は、どんな暮らしをしているのだろう。歌に詠まれるように、素朴な喜びや悲しみを、肌で感じているのだろうか。貴族の姫君として、定められた「あるべき姿」を演じることに、小夜は時折、息苦しさを感じていた。
小夜が和歌を詠む時、心は常に、市井の風景や市井の人々の感情に向けられていた。宮中の歌会で詠まれる、形式ばった恋歌や四季の歌ももちろん嗜んではいたが、彼女の心を真に揺さぶるのは、旅人が詠む荒野の歌であり、物売りの声が響く町の情景を詠んだ歌であった。
「姫様、そのような御歌は、あまり人前でお詠みにならないでくださいませ。貴族の姫君としては、少し…」
お芳は眉をひそめ、言葉を濁した。小夜は微笑んで、
「でも、わたくしは、この庭の奥に咲く名もなき草花の歌の方が、心に響きますわ。それは、この世に生きる、小さな命の歌ではありませんか?」
そう言う小夜の瞳は、遠い光を捉えているかのようだった。
兄の**朝臣**は、小夜の唯一の理解者であった。彼は小夜よりも四歳年上の二十歳。将来を期待される若き官人として、日夜政務に励んでいた。彼は真面目で責任感が強く、小夜の突飛な発言や行動を最初は咎めることもあったが、彼女の純粋な心と、世の中を深く見つめる洞察力には気づいていた。
「小夜、また物思いに耽っておるのか。お前は昔から、この閉鎖された空間よりも、外の世界に心を奪われる癖があるな」
ある日、朝臣が小夜の部屋を訪れた時、彼女が御簾越しに遠くを見つめているのを見て言った。
「兄上。この世には、わたくしが知らぬことが、あまりにも多すぎます。この御殿の奥で、いつか定められた人の妻となり、子を産み、そして年老いていく。それがわたくしの人生の全てだとすれば、あまりにも…」
小夜は言葉を濁した。朝臣は妹の肩にそっと手を置き、
「お前の気持ちはわかる。だが、それが我らの定めだ。我らはこの家門に生まれた。その役目を全うせねばならぬ」
彼の言葉には、自身もまた、その「定め」に縛られていることへの葛藤が滲んでいた。朝臣は、世の不条理を深く憂う心も持っていた。疫病が流行り始めた際、いち早くその兆候に気づき、対策を講じようと奔走していたのは、他ならぬ彼だった。
一方、平安京の羅城門の外、朱雀大路から一本入った裏路地には、貴族の屋敷とは対照的な、粗末な長屋がひしめき合っていた。泥と埃にまみれた道には、物売りの叫び声が響き、子供たちが裸足で駆け回り、汚れた小川には生活の排水が流れ込む。そこには、雅やかなる都の光が届かない、もう一つの都があった。
この長屋の奥の一角に、**夕霧**は暮らしていた。彼女は今年で十七歳。幼い頃から貧しく、数年前の疫病で両親を失い、天涯孤独の身となった。痩せ細った体つきではあったが、背筋はまっすぐ伸びており、日差しを浴びた肌は健康的な色をしていた。質素な藍色の小袖を纏っているが、その瞳にはどんな苦境にも屈しない強い意志が宿っていた。
朝早くから日雇いの仕事に出かけ、重い荷を運び、時に都の貴族の屋敷の裏手で、食べ残しを探すこともあった。それでも、彼女の心は荒んでいなかった。それは、幼い頃から世話になっていた老薬師、**玄斎**の影響が大きかった。
玄斎は、都の片隅にひっそりと庵を構え、人々からは「もののけを払う薬師」と恐れられることもあったが、その実、市井の人々の病を無償で診ていた。彼から薬草の知識と、人を慈しむ心を教わった夕霧は、自身も貧しいながらも、困っている人々を見ると放っておけない性分だった。玄斎は口数が少なく、ぶっきらぼうな老人だったが、夕霧にとっては唯一の肉親であり、師でもあった。
「夕霧よ、世は常に移ろう。貴きも賤しきも、命の重さに違いはない。病は身分を選ばぬ。お前が持つその手で、誰かの命を繋ぐことができるのなら、それこそが真の業というものだ」
玄斎の言葉は、夕霧の心に深く刻まれていた。
夕霧には、数少ないながらも心を許せる仲間がいた。同じ長屋に住む**源太と梅**だ。
源太は夕霧よりも一つ年上の十八歳。日雇い労働で生計を立てており、いつも明るく楽天家で、どんな苦しい時でも冗談を言って夕霧を笑わせた。
「夕霧、今日もまた貴族のお屋敷の残り物か? いつか俺たちが、あのお屋敷の庭で酒を酌み交わす日が来るさ!」
源太はそう言って、夕霧が拾ってきた食べ残しの米を、無邪気に頬張る。
梅は夕霧より二つ年下の十五歳。家族を疫病で失い、今は薬売りの手伝いをして糊口をしのいでいる。少し引っ込み思案だが、薬草の知識に長け、夕霧が人々を看病する際には、いつも率先して手伝った。
「夕霧姉さん、この薬草は熱に効くって玄斎様が言ってた」
梅は小さな声でそう言いながら、摘んできた薬草を夕霧に手渡す。
貧しさの中で、彼らは互いに助け合い、支え合って生きていた。貴族の生活とは縁遠く、彼らの話題は常に明日の糧のこと、日々の苦労、そして疫病の流行への不安だった。夕霧にとって、貴族とは手の届かない遠い存在であり、彼らの豪華絢爛な生活は、自分たちとは全く無縁の世界だと思っていた。貴族への強い警戒心と、同時に拭い去れない諦めと、どこか屈折した感情を抱いていた。それでも、彼女の瞳には、どんな困難にも屈しない強い光が宿っていた。
平安京を覆う疫病の影は、日に日に濃さを増していった。賀茂忠行をはじめとする陰陽師たちが加持祈祷に励むも、その効験は薄く、都のあちこちから人々の呻き声と、死を悼む声が聞こえてくる。高貴な屋敷の奥では、高価な香が焚かれ、病を避けるためのまじないが施された。しかし、市井では、病に倒れた人々が路上に放置され、その死体は獣に食い荒らされることも稀ではなかった。都は、雅やかなる光と、目を背けたくなるほどの闇が混在する、混沌とした場所へと変貌しつつあった。
小夜は、屋敷の奥から聞こえてくる外の喧騒と、女房たちのひそやかな噂話から、疫病の恐ろしさを肌で感じていた。
「姫様、決して御庭の外へは出ないでくださいませ。物の怪が外に溢れておりますゆえ…」
お芳は毎日、小夜に厳しく言い聞かせた。しかし、小夜の心は、閉ざされた庭園では静まらなかった。窓から見える空は、屋敷の中にいても外にいても同じ色をしている。疫病という共通の災厄が、小夜の心をさらに外の世界へと駆り立てていた。
その頃、兄の朝臣は、自身の屋敷でも病に倒れる者が出始め、激務に追われていた。彼は陰陽師の呪術だけでなく、実際に人々の暮らしを立て直すための実務にも尽力していた。朝臣は、小夜の好奇心を知っていたからこそ、妹がこの疫病の混乱の中で無鉄砲な行動に出ることを案じていた。しかし、彼自身もまた、この未曾有の事態を前に、貴族としての矜持と、人としての良心の間で、深く葛藤していた。
夕霧は、長屋の仲間たちが次々と病に倒れていくのを見て、いてもたってもいられなかった。玄斎から教わった知識を総動員し、僅かな薬草を集めては、病人に与え、自らも看病にあたった。彼女の小屋は、いつしか病に苦しむ人々の避難所となっていた。泥にまみれ、顔には煤をつけ、身なりは粗末なまま、しかし、その瞳には常に希望の光が宿っていた。
「夕霧姉さん、休んでください。倒れてしまいます」
梅が心配そうに声をかけるが、夕霧は首を横に振った。
「ここで諦めたら、この人たちはどうなる。玄斎様が教えてくださった。命の重さに、貴賤の区別はないと」
小夜は、兄の朝臣が疫病対策のために市井に出向くことを知り、胸をざわつかせた。普段なら許されない行動だが、この混乱の中では、お芳の監視も甘くなることがある。そして、一つの強烈な衝動に駆られた。
「わたくしも、この目で見てみたい。人々の苦しみを、そして、それに立ち向かう人々を」
彼女の心は、初めて感じる強い感情に突き動かされていた。それは、単なる好奇心ではなかった。定められた運命に抗い、自分自身の目で世界を見たいという、抑えきれない衝動だった。
その日、朝臣が疫病患者の小屋を視察に出向く際、小夜は人目を忍んで、彼の後ろを追った。粗末な身なりに変え、顔を覆い隠し、御簾の中の生活では決して触れることのなかった、都の裏側の真実の姿に、彼女は息をのんだ。腐臭と、人々の苦しむ声、そして死の匂いが、彼女の鼻腔を刺激した。
そして、その小屋の奥で、小夜は運命の出会いを果たす。
彼女が見たのは、薄暗い小屋の中で、病に倒れた人々の汗を拭い、水を飲ませ、懸命に介抱する、一人の少女の姿だった。その少女の額には汗が滲み、顔は泥にまみれていたが、その瞳は燃えるように強く、一切の諦めを知らなかった。まるで、闇の中に咲く一輪の花のように、その少女は輝いていた。
その少女こそが、夕霧だった。
小夜は、自身の身分を忘れ、その場に立ち尽くした。貴族の姫君として、これまで知ることのなかった「生」の輝きが、そこに凝縮されているように感じられた。夕霧の毅然とした態度と、身分の隔てなく人々を慈しむ姿は、小夜の心を深く揺さぶり、彼女の貴族への固定観念を根底から覆した。
貴きも賤しきも、命の重さに違いはない。玄斎の言葉が、小夜の心に響いたかのようだった。
この出会いが、小夜と夕霧、そして平安京の運命を大きく変えることになるなど、この時の小夜は知る由もなかった。