生活の始まり
「どうぞ。入って。」
そう低い声で言う将星はどこか不思議な雰囲気を身にまとう。思ったより背が高い大人な男性だった。
まだ人が多い時間帯を抜けて家に初めて入った。少し黄ばんだ壁に茶色の床。家具はほとんどなく黒のベッドとクッション。奥に黒のスーツケースが2つ。広々としたワンルームに冷蔵庫だけが白く、目立っている。
将星は部屋のすみにあるクッションに座った。私はベッドに寝っ転がる。
無言の空間と初めて会ったとは思えない心地よさに包まれ目を閉じる。
どのくらい寝ただろうか。タバコの匂いで起きた。将星はお風呂から上がったのか、濡れた髪に上半身裸でタバコを吸っている。鍛えられた身体と肩に大きなタトゥー。腕は傷だらけ。根性焼きの跡もある。
呆然と見つめていると目が合った。心底どうでも良かった。君の過去なんて。
「お風呂くらい入れよ。」
将星は私を脱がせながらそう言う。呆然と立ち尽くす無心の私にシャワーをかける。服を着せると作業が終わったかのように先に寝てしまった。
私は人と一緒の空間に居るのが嫌だった。だけどなんとも言えないこの距離感が心地よくて私は毎日将星の家に行くようになる。
鍵を渡され、共同生活がスタートする中、ルールができた。
一つ目、黒いスーツケースを秘密ボックスとする。鍵をかけてお互いの私物を入れる。将星のボックスは特に興味もないから見ないけど、たまにごそごそ漁っては外に出て行った。
二つ目は、お金は共有。もちろん私はお金なんかなにもない。でも台所の上にはいつも一万円札が沢山ある。それは急に減ったと思ったら急に増える。私は動かないからお金の使い所は特に無かった。
三つ目は、お互い干渉しないこと。これはもう暗黙のルールである。1日の間、将星はほとんどパソコンをカチカチ動かす。私は横で勉強をする。受験勉強だ。夜になるとやっと会話をする。ウーバーイーツなんか頼んだりして、毎日テキトーに過ごす。
バイクを持ってる将星は私をたまに森や川に連れて行ってくれた。人のいない2人だけの空間。一日中のんびりして夜は2人でブルーシートに包まる。ホテルに泊まる日より、語り合って夜を明かす日がとても幸せだった。この頃までの私は自分の事しか考えられず、人に興味もなかった。唯一、将星だけが存在していて興味があったようだ。
ある夜、いつものように2人だけの森で月を眺めていた。
「男、嫌いなんだよな?」
将星がボソッと呟くように話しかける。
そう。私は男が嫌いだ。元々は男女関係なく仲良くできるような元気な性格だったと思う。でもいつからか、仲良くしていたくても心の中では嫌いな感情があった。何故だか分からない。過去に何かあったのかもしれない。けれど思い出せなかった。
少し沈黙が流れて急に飛び起きた。
「俺は、何もしないよ!」
そこには全裸になった君が居た。
「好きなようにすれば良いし、好きなように生きれば良い。なんだって受け止めるよ。」
少し涙ぐみながら堂々と見つめてきた。
今まで無心だった私の心がプチンと切れた気がした。
「将星。私は自分を取り戻したい。」
そう言ったと思う。気づくと私は将星のタバコを持って全裸のお腹に押し付けていた。
君は無言で耐えていた。
私のことを介護してくれてた。多分好きだ。でもどうでも良い。
将星は何かを隠している。こんなにも一緒に居るのに何も知らない。それが憎い。苦しい。でも聞く勇気なんてない。この生活が終わってしまう気がするから。
全てがどうでも良い。
君も狂っているし、私も感情はぐちゃぐちゃだ。全部どうでも良いや。
その日から将星との毎日は時間の感覚を狂わせ、感情を狂わせた。