36話 舞香の思い
その夜、私――御堂舞香はいつも通りに帰宅中だった。
いつも通りの時間、いつも通りのバッグを肩に掛け、いつも通りのエコバッグ片手に、いつも通り鼻歌を歌いながら歩く。
たったそれだけのはずなのに、まさか自分の行いを悔やむことになるなんて――。
「たっだいまー! お姉ちゃん帰った……よ?」
「……姉さん?」
勢いよくリビングの扉を開けると、その先にいたのは、いつも通りソファで寛いでいた大和ではなく、憔悴したように項垂れていた大和の姿。私を見つめるその目に生気はなく、草臥れたその姿はまるで捨てられた人形のようで。
――これはただ事じゃない。
直感的にそう思わせられた私は、荷物をテーブルに置くや否や、慌てて大和に駆け寄る。
「ちょっ……大和、大丈夫!?」
「……あぁ」
「絶対大丈夫じゃないでしょ!?」
――こういう時どうしてあげたらいいのっ!?
声を掛けた瞬間、再び俯いてしまった大和。
対する私はどうしたらいいのか分からず、オロオロと慌てふためいてしまう。
でも、今の大和の支えになれるのはきっと姉である私だけ。そんな私が動揺しているようじゃ、大和はきっと立ち直れない。
――とりあえず、話を聞いてあげようかな。話してくれれば、何か助けになれるかもしれないし……。
「……待ってて大和。手洗いうがいして、荷物だけ片付けてくるから……!」
そう決断するやが早いか、私は急いで洗面所で事を済まし、買ってきた食材をテキパキと仕分ける。
仕分け作業をしながら、ふと、今日は玄関でコスプレしなくてよかったなと思った。だって、大和がこんなテンションの中でコスプレして帰ってくるとか、弟の気も知らないお気楽人間でしかないはずだから――。
「とりあえず終わり、っと」
ひとまずやる事を終わらせた私は、麦茶を二つ分のコップに注ぐ。そしてそれを両手に持って歩くと、机の上に置きながら大和の隣に座った。ちらりと大和を見てみるが、やっぱり目に光は宿っていないままだ。
「……ねぇ大和、何があったの?」
縮こまった弟の背中をさすりつつ、そう問いかけてみる。
大和が落ち込んでいる理由は、多分だけど、テストが上手くいかなかったんじゃないかなと思う。これまで話を聞いてきた感じは順調そうだっただけに、最終日でやらかしたのがかなりショックだったのかもしれない。――そう思っていた。
でも、真実はもっと酷くて、言葉にできないような内容で――。
「……実は」
そんな前置きの後、大和はポツリと語り始めた。
★―★―★
「……嘘でしょ」
「嘘だったらよかったんだけどな……」
大和が語り終えた瞬間、最初に私の口から出たのはそんな言葉だった。ただただ、開いた口が塞がらない。
まさか、弟が同級生に嵌められていたなんて。
その所為で今日の試験を受けられず、強制退部になるかもしれないなんて。
そして、私が罠に利用されていたなんて――。
信じられない証言の数々に、私はどうにかなってしまいそうだった。胸のうちに渦巻く感情――それが怒りなのか、悲しみなのか、後悔なのか、自分でももう分からない。
「……はぁ。まぁ姉さんが無事ならよかったよ」
ため息の後、そんなことを言ってくれる大和。
だけど、無理に笑みを作ろうとするその顔は、見ているだけで痛々しくて――。
「そんな……」
私は、それ以上の言葉を紡ぐことができなかった。
静寂がリビングを支配していく。普段付いているはずのテレビが付いていないだけで、こんなにも静かなんだなと実感させられてしまう。
私は俯きながら大和の話を思い返す。
大和曰く、私が交通事故に遭ったかのような写真を、試験開始直前に王子君という同級生から見せられたらしい。
そして、その写真に映るトートバッグ・お守り・髪の毛を見た大和は、本当に私が事故に遭ったのだと判断したという。
実の弟が姉である私と見間違えてしまうほどに、巧みに撮られた写真――。実物を見ていない以上、それがどれほど似ているのかは分からないけれど、恐らくどこかで私の写真か何かを入手していないと、私を再現することはできないはず。
けど、そうなると。
――どこかで誰かに盗撮された?
信じたくもない可能性が、私の脳内に浮かんでくる。
呑気に鼻歌を歌いながら帰っていた私のことだ。
こっそり誰かに盗撮されていたとしても、警戒のけの字もない私は気づいていなかっただろう。
――そんな私の所為で大和は……。
拳をギュッと握りしめる。
自分の能天気さが、嫌で嫌でしょうがなくなってしまった。
「ごめんね、大和……。お姉ちゃんの所為で……」
静寂の中、私はポツリと呟くように謝る。
自分でも声が震えているのが分かった。
けれど、そんな私に対して大和は――。
「……なんで姉さんが謝るんだよ。姉さんは出汁に使われた被害者なんだ。姉さんに落ち度はねぇよ」
そう言って顔を上げると、だから、と続けて。
「そんなに自分を責めないでくれ……。姉さんにまで落ち込まれたら、立ち直れる気がしねぇから……」
留まった涙を堪えるように、苦笑してみせた。
「……っ」
心臓が、ドクンと脈打つ。
愚痴は吐いても弱音は吐かないあの大和が、私に弱音を吐いた。それほどまでに大和は追い込まれているのだと思うと、胸が締め付けられて苦しい。
だけどその反面、こんな私でも大和は姉として頼りにしてくれているみたいで、ちょっぴり嬉しくもあった。
我ながら単純だと思ってしまう。
でも、今だけはそんな単純さが――嫌で嫌でしょうがなかった能天気っぷりが、大和の支えになってあげられるのかもしれない。それが弟の望みなら、きっと尚更。
こんな考えだって楽天的かもしれないけれど、それでも――。
「……うん、分かった。でも、その代わりに」
「ちょっ……」
私はふいに大和へ身体を寄せると。
「辛くなったら、いつでもお姉ちゃんを頼るんだよ?」
両手を背中に手を回して、ギュッと抱きしめた。
ゴツゴツとした男の子らしい体つきが全身に伝わり、耳元では大和の呼吸音が聞こえてくる。
――あったかい。いつの間にか大きくなったんだなぁ。
久しぶりのハグに、私は忘れていた何かを思い出したような感覚がした。
きっと突拍子もない行動に、大和は驚いているだろう。
その証拠に、大和の動きがちっとも感じられない。
だけど、それもほんのひと時だけだったみたいで――。
「……あぁ」
やがて、私の背中に手が添えられたのを感じた。同時に、大和の息が嗚咽混じりになり、身体が小刻みに震え始めたのも分かった。きっと、溜まっていたものが溢れてしまったのかもしれない。
「うんうん、よく頑張ったね」
私は大和の背中をポンポンと叩いてあげる。
大和の震えが、ますます大きくなったような気がした。
こんな年にもなって抱きついてくる姉なんて、側から見れば馬鹿だと思われるかもしれない。私だって、自分で何やっているんだろうって思う。
でも……それで弟の支えになれるのなら、私は馬鹿であり続けたい。
――だって私は、大和のお姉ちゃんなんだから。
クーラーの効いた部屋の中、大和が落ち着くその時まで、私は背中を優しく叩き続けるのだった。
お読みいただきありがとうございました。
姉としての立場を再認識した舞香さん。これを機に、彼ら姉弟の絆はより深いものになるでしょうね。
さて、次回はこの出来事から1週間ほど経過した後のお話になる予定です。更新日時は未定ですが、1月中には投稿できるように努めます。お楽しみに。
それと、実は今回で『善行貯金箱』は10万字を超えました。
いやぁ、めでたいですね。何度か更新が空くこともありましたが、年内に超えることができて良かったです。これも、お読みいただいている皆様のおかげです。本当にありがとうございます。
私生活の都合上、更新頻度が遅くなってしまっていますが、どうかこれからもお付き合いいただけると幸いです。
それでは、次回もまたよろしくお願いします(→ω←)




