動き始めた影たち
ティアは店の扉を努めて冷静に閉めると、脱兎のごとく逃げだしたのだ。
あれだけ食べればお会計にも時間がかかるし、ラースだってすぐには追ってはこれないはず。
走りながら子狼の姿をしたフィヌイ様を、いつもの肩掛けカバンの中にそっと入れる。フィヌイ様も慣れたもので、すぐにカバンの隙間からいつものようにひょっこりと顔をだし、
そのまま小さな路地を走り続けていると、角を曲がった先に市場へと続く大通りが見えてくる。ティアは迷わず大通りへと入ったのだ。
人ごみに紛れると、周りの人たちに歩調を合わせて、何事もなかったかのように歩きだす。そして目立たないようにすぐにフードを深く被ったのだ。
人通りのない所を全力疾走で行くよりは、人ごみに紛れてしまった方が見つけにくいとティアはそう考えたのだ。
夕方前のこの時間、大通りは夕飯の買い物で女性たちを中心に賑わっていた。
色とりどりの大きな布が市場の通りの張り巡らされ、上空を覆っている。
雨除けにもにもなるし、暑い日差しを遮るカーテンの役割を果たしているようで、異国の風情を感じることができる。
本当ならもう少し観光を楽しみたかったが、今の状況ではそうも言ってはいられない。近いうちにこの街を出なければいけない。
人ごみに紛れ、しばらく歩いているとフィヌイ様が話しかけてきた。
――僕はどっちでもいいんだけど・・・ティアはあの男の話、最後まで聞かなくって良かったの?
「いいんですよ。ご飯もしっかり食べたし食後の運動もしないといけないですし、それに・・ラースと関わると厄介ごとに巻き込まれそうな気がするんです」
――まあ、ティアのこと聖女だって完全に気づいていたしね。あいつの前で、こっそりと聖女の『治癒の奇跡』を使ったのまずかったんじゃないの?
「うっ・・そうなんですけど、あの場はあれしか方法が思い浮かばなかったんです。それに、子供たちも痛みを必死に我慢していたのに見過ごせなかった。私には、治すことができたから・・」
そう、正体がバレてしまってもティアには他人ごととして片付けることができなかった。知らんぷりなどできるわけがない。
神殿で自分が本当に苦しく助けを求めたいときに、見なかったこと無かったことにされ知らんぷりされる虚しさや悲しさをティアはよく知っている。
同じように苦しんでいる人たちがいれば力になってあげたかった。
それでも神の力を代理で行使できるだけの、非力な人の身にすぎないが、それでも微力ながらでも手伝えることがあるかもしれない。
今にしてみれば、ラースにも気づかれず子供たちの怪我を治すもっと良い方法があったのかもしれない。
・・でもあの時のティアにとっては、それが思いつく限りの最善の方法だったのだ。もちろん後悔はしていない。
しかし、これからどうするべきか悩みどころでもある。
ディルの街にもそう長くはいられない。
この噂が広がり、神殿の関係者もティアを探しにやってくるだろう。
そうすると、遅くても明日にはこの街を出なければいけない。とりあえず目的の物は買えたし、宿屋に戻って急いで荷物をまとめないと・・
今後のことを考えながら、しばらく大通りを人の流れに乗り歩いていたが、宿に戻るため小さな路地を曲がり道なりに歩ていると、
――ティア、止まって――!
突然、フィヌイ様の大きな緊張した声が頭に響く。
声の大きさにびっくりして慌てて歩みを止めたその時だった。
ヒュッッ――
僅かに風を切る甲高い音と共に、銀色の光の筋が一瞬見えたような気がした。
すぐ下を見れば、針のようなものが地面に刺さっている。
このまま進んでいたらティアの首には、細く長い針のようなものが刺さっていた。
突発的な事故なんかじゃない。完全に聖女を、いやティアを狙っての攻撃だとフィヌイは確信したのだ。




