27襲撃、醜劇、終劇
薄暗い廊下には、小さな燭台がポツポツとあるだけで、少し薄暗い。カツカツ、と靴裏が床を叩く音が静かな廊下に響く。
先導して歩くことなどなかなかないので、どうしても少し緊張する。
腰に回されていた手は、存外強い力ではあったが、強引に振り解けばパッと離された。少し怪訝な顔はされたが、すぐにニコリとした表情になったので、ホッとする。
貴族ともなれば、あまり詳しくはないがなんとなく逆らってはいけないというくらいしか知らない。
廊下を歩いていくと、いくつかの部屋の扉があるが、確か1番奥の突き当たりが手洗い場だったはず。その姿が見え始めて、すこしホッとした。
お姉様の旦那様といえど、初めて会うのだ。二人きりという状況はやはりどうにも落ち着かない。
「あの、」
こちらです、と言おうと顔だけ振り向くと、すぐ後ろにお姉様の旦那様であるオリバー・トラフ様が立っていた。
近いと言う表現は間違っているかもしれない。もはやその距離はほぼ無いに等しい。
背中が、トラフ様の服にぴたりとくっついてしまうほどであり、それはもう背後から抱きしめられていると言っても過言ではない距離感で。
「と、トラフ様……、すこし、近すぎでは……」
不気味な沈黙の中で、オリバー・トラフ様は少し動くことなく、離れる気配が無い。「そうかな」と言う返事だけが返ってくる。
「で、では……この先にお手洗いがあるので」
「ああ、ありがとう」
一歩、二歩と、はやる気持ちを抑えながら、距離をとる。
なんともいえない緊張感で、少々ぎこちない動きで離れて、振り返れば、先ほどから一歩も動こうとしないオリバー・トラフ様と目が合った。
目が、弧を描く。
唇の間から、赤い舌がぬるりと滑る。
「わ、私」
「君の姉が」
「え?」
「不敬のないようにと、言っただろう?」
低く、ねっとりとした声が、ゆっくりと、まるで思い出させるように、教え込むように、囁いた。
「どういう……っひ……」
どういうことなのか、と問う前に、にゅっと大きな手のひらが伸びて来て私の体をぎゅうと背後から抱きしめると、耳元の髪の毛を乱暴に掴み、ぐい、と引っ張り上げられる。
痛みと、突然の行動に悲鳴をあげそうになると、口元が手で押さえつけられる。
「ふふ、気が変わったのかい?暴れる小鳥を手籠にするのも一興だ。大丈夫、すぐ良くなる」
強い力に抵抗するも、ずりずりと引きずられ、いくつかある部屋の一つに投げ込まれた。
床に叩きつけられて、背中がジンジンといたい。
バタン、と音と共に扉が閉まる。
ハッと顔を上げれば、扉を背にしたオリバー・トラフ様が不敵な笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。
嫌な予感がする。
暗い部屋の中、オリバー・トラフ様の手には小さな小瓶が握られていて、毒々しい色がキラキラと光っている。
恐ろしくなって周りを見渡せば、ここはどうやら物置のようで、机や棚に布がかけられているばかりだ。
彼の背後にある扉がただ一つの出口らしい。
にやけた顔が近づいてきて、唇を噛む。
何をされるかなんて、想像したくもない。
なんでこんなことに。
後退りしようにも、立ち上がることも出来ずに心の中で悪態をつく。
早くなる鼓動に、冷たい汗がつう、と頬を流れる。
「ち、近づかないで!」
とうとう覆い被さるようにして私の上に乗り上がろうとするオリバートラフ様を跳ね除けようと手を振り回すと、手のひらが彼の顔にパンっとぶつかった。
押し倒そうとする手がぴたり、と止まったかと思うと、ギラリと鋭い目がこちらを睨む。
「つっ、大人しくっ……しろっ……!」
——バシン
逃げなくては、そう思った瞬間、頬に衝撃が襲い床に強く頭を打ちつけた。
ジンジンと痛む頬に、ぐわんと脳が揺れて視界が定まらない。
ぐるぐるする視界に気持ちが悪い。
早く逃げなくては。
早く起き上がらなくちゃ。
そう思うほど、なかなか体に力が入らない。
歪む視界の中、甘い匂いが強くなり、生暖かい息が吹きかかり、ぞわりとする。
肩をグッと抑え込まれているせいで、起き上がることも出来ない。
悔しさでぐっと歯を食い縛り、顔を逸らすと、視界の端に布のかかった棚と、その上に大きな壺があるのが見えた。
これを落とせば、大きな音が出せる!
ぐぐ、と手を伸ばせば、指先が布に引っ掛かった。
「……?何をして」
くん、と引っ張れば、布がピンと張り、棚の上の壺がズズ、と音を立てて動く。
オリバー・トラフ様が気がついて振り向いたが、もう壺は傾き、真上に落ちてくる途中だ。
ぎゅっと目を瞑って、衝撃に備える。
——ガシャン
パラパラ、と陶器の砕ける音と、パリン、と弾けるような音が耳元で鳴った。
ゆっくりと目を開けば、横に倒れたオリバー・トラフ様と、粉々になった壺、そしてピンクの液を撒き散らす小さな小瓶が目に入った。
「はぁ、は、」
起き上がるだけで息が切れる。
横に倒れたオリバー様は気絶しているだけのようで、大きな怪我はなさそうだ。
よく見れば、壺も見た目は重厚そうだが、薄く、軽そうだ。
だからと言って、大の男が気絶するほどと考えるとその衝撃は軽くは無いのかもしれないが。
「……どうしよう、私、とんでもないことをしたんじゃ」
逃げることに無我夢中で色々してしまったが、この人は、貴族で、客人で、お姉様の旦那様だ。
サッと頭から水が流れていくように血の気が引いていく。
倒れているオリバー・トラフ様を見て息
その時、バンと勢いよく扉が開かれ、眩しい光が部屋に差し込んだ。
眩しい光に目を細める。
大きな影が部屋に入り込んだ。
「ベリル!」
「旦那様……!」
駆け寄る旦那様にしがみつこうとすると、カタカタと手が震えていることに気がついた。
手を握ろうとするも、上手く力が入らない。
今になって震えが止まらない。
怖い。
怖かった。
今更ながらに震えてくる。
押し倒されることも、殴られることだってもちろん初めてだった。震える体は、収まる様子は無い。
あまりにも恐ろしい体験に、体の力が上手く抜けない。体が変にこわばって、息を吸うのも意識しなければ上手くいかない。
「ベリル、なんとも無いか?遅くなってすまない」
旦那様の手がそろりと頬を撫でる。
恐る恐る触るその手は、私を気遣ってかほんの少し触れる程度だ。
硬い指先が当たる。
同じ、男の人の指だというのに、どこかほっとした気持ちになる。
少し目を閉じれば、服が濡れた。
あれ?
「あれ?……は、い。いえ、大丈夫、大丈夫です……あ、あれ?」
「ベリル……」
旦那様の声に、自分が泣いていることに気がついた。頬は濡れているし、旦那様の手も、私の涙で濡れてしまっている。
間抜けな声に自分でびっくりだ。
驚くような旦那様の視線が、私から横へと移っていく。
つられるように視線を向ければ、そこには白い目をして倒れ込んだオリバー・トラフ様と、それを縛り上げるベルさんの姿があった。
思わず旦那様のシャツを握り締めれば、旦那様の腕がゆっくり私を包む。顔が、旦那様の肩口にぶつかると、なんだか熱いものが込み上げてくる。ようやく息ができる。
旦那様の「無事でよかった……本当に」という言葉に、目元がジンジンとし始める。
ふわりと香る、甘い香り。
その匂いに、思わずトン、と押しのけてしまった。
私を押し倒して飲まそうとしたあの液体にや、お姉様、そしてオリバー・トラフ様からも香る、この匂い。視界の端には割れた壺に混ざる、砕けた小瓶。小瓶の中に入っていた液体は、床に広がり地面に染み込んだせいで色はわからない。
不安で、怖くて、痛い。
旦那様の顔が、今は見ることができない。
数ある小説の中から、この小説を読んでくださりありがとうございます!
なんでも手に入れようとする傲慢な貴族、という感じに描いたつもりですが、上手く描けたかわかりません。
少しでも伝われば嬉しいです。
楽しんでいただけましたら幸いでございます!
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