25 誘惑
「お待たせした、おや?」
応接室の扉を開くと、そこには女性が一人しか居らず、ベルの姿もベリルの姿も見当たらない。
もう一人いると聞いていた客人も見当たらない。
「あら、ごきげんよう、ヴァン・アトランド様。ヴァン様と呼んでも?」
「ええ、……構いませんが、妻は?」
「ああ、主人であるオリバーを案内しておりますわ」
「案内?」
「まぁ、そんな話はどうでも良いではありませんか。私はベリルの姉のアンバーと申します、今日は随分と雰囲気が違いますのね」
ニコニコと愛想の良かった夫人の顔が不満げに歪んだ。
「……失礼、どこかでお会いしただろうか?」
夫人の口の端がぴくりと動く。
ピリ、とした空気が流れるのを感じた。
僕は大概このような風貌だし、あまり外出はしない。したとすれば、先日の夜会だろうか。挨拶をした人の中に彼女は居なかったはずだ。
「……夜会で、少しお見かけいたしましたの」
確かに、ベリルの姉と言われれば、そうなのだろう。雰囲気はまるで違うが、よく見れば顔立ちは似ている。
ベリルは涼やかで、夫人は随分と少女のような幼さを帯びた雰囲気がある。
金の髪が、そう見せているのだろうか。
クリクリとした猫のような目がこちらを捉えた。す、と立ち上がったかと思うと、肌を隠していた羽織を外した。
豪勢なドレスは、煌びやかで、まるで夜会に訪れたような華やかさに気圧される。いくつもの小さな宝石が縫い付けられキラキラと美しい。
しかし、どうも儚げな印象には似合わない露出の激しいドレスだ。
「少し、肌を出しすぎているのでは?」
「ふふ……その方が、殿方には都合がいいのではなくて? ねぇ? どうかしらヴァン様」
甘えるような視線と、胸元が大きく開いたドレスに、むせかえるような甘い匂いに頭がくらりとした。
何を勘違いしたのか、嬉しそうに笑う夫人がゆっくりと近くに寄ったかと思うと「あ」と声がその小さな唇から漏れる。
ふらりと突如よろめいた夫人に、手を差し伸べないわけにもいかず、咄嗟に抱き留めれば、何故か嬉しそうな顔でぎゅうっと抱きついてきた。
「何を、するんです」
「わかっているでしょう?私はわかっていますわ」
「は?」
「こうして抱きしめてくれたのだもの……ふふふ」
肌がこぼれ落ちそうなほどに広げられたドレス越しに、豊満な胸が押しつけられる。
ぐにゃりと押し潰れた胸が視界に入った。
「ベリルなんかより、どうです?私の方が愛でがいがあるのではなくて?あの子では満足しないでしょう?見た目も、体も……」
細い指が、つい、と腹を撫でる。
ぞわりと嫌な感覚が腹を通り、気持ちが悪い。
「夫人が、彼女以上……だとおっしゃる」
「ええもちろんですわ! あれは愚鈍で役立たず、殿方の喜ばせ方も知らない。でも安心してくださいませ。私が全てうまく整えますわ」
「は……それはそれは」
吐きそうだ。
くだらない。
思わぬ下品な誘いに、腹の底から声が出た。
理性のない動物の様に体を押し付けるだけの目の前の生き物に、急速に心が冷え込んでいく。
これは本当にベリルの姉なのか?
むわりと漂う鼻をくすぐる不快な香りは強さを増して、頭痛がする。
胸を這う手が、気味が悪い。
「今すぐ、ヴァン様の願いを叶えられますわ。欲しいでしょう?私のこと」
「僕の望み……」
「ええ、ええ。わかってますわ。今すぐ差し上げても良いのよ。アレを捨ててしまって、私を愛しても良いのです」
甘く囁くような、ねっとりとした声が体を這う。何か呪文にように繰り返される許容する言葉には、脅迫のような含みさえ感じる。
プツン、と胸のボタンが一つ外れ、素肌に細くひんやりとした手が触れる。
ニヤニヤと、ニヤけてだらし無く猫のような声をあげて擦り寄る夫人から、甘い匂いが強く匂った。
それを見下ろせば、嬉しそうに下部に手を伸ばすのが目に入った。
なんとも尚早な事だ。
「離れてくださいますか?」
「え?」
「私に貴女は必要ない。夫人、貴女は立場を弁えるべきだ」
「な、なんですって!? きゃ」
ぐい、と押しのければ、細い体が床に転げる。
力加減をしたつもりだったが、あまりにも腹の底が煮えたち、力の加減ができていなかったのか、椅子にぶつかり椅子もろとも転がった。
思いのほか大きな音が部屋に鳴り響く。
「な、なんて事を! 私に、ぼ、暴力を! 暴力を働いたわ! こんなこと許されないわ!」
「許されないのは貴女です、夫人。こんな場所で……客人がすべき態度ではない。押しかけておいて、馬鹿にするのも大概にしていただきたい」
「なっなっ、あの子ね。あの女に何かを言われたのね。私に嫉妬して、それで」
「は、何を言っている……?」
「私の方が相応しい、そうに決まってるの、あいつさえ、居なくなれば……」
人前であるにも関わらず、ガリガリと爪を噛み、嫉みごとを言う彼女の目はまるでこちらを見ていない。
微かに、キィと扉の軋む音が耳に入り、調理場へ向かう扉を見れば、少しばかり隙間ができている。じっとその扉を見れば、ガタリ、と物音がして隙間から二つの影が蠢く。
「……レオン、ベル、そこにいるか」
「はい」
「……失礼致します」
おそらく入るに入れなかったのだろう、二人は気まずそうに室内に入って来た。
何を頼んだのか、この時刻には相応しく無い菓子まで皿に乗っている。想像するに容易い状況に笑いが込み上げる。
入って来た二人を唖然としながら見つめていたが、レオンの睨む様な目つきに夫人が慌てて胸元を整える。
「話は聞こえていたか?」
「はい、扉の外より漏れ聞こえておりました。盗み聞きのような真似をして申し訳ございません」
「いい。レオン、何が聞こえた?」
「旦那様を蠱惑しようとしていた伯爵夫人のお声が聞こえておりました」
「ベル、お前は?」
「はい、旦那様。伯爵夫人様が旦那様をお誘いし、奥様を侮辱するお声が聞こえました。伯爵夫人様は正気では無いご様子です」
「……だ、そうだが」
「あ、あなた達、使用人の分際で私に対してその態度、無礼だわ! 私は乱暴されたのよ! 貴族に辺境の領主なんかが楯突いて良いのかしら……!私の言う事を聞いておいた方が美味しい思いができるのに! 私は伯爵夫人よ!」
「……さぁ、どうだか」
「……ああ、あの、旦那様」
キョロキョロと周りを見渡して、ベルが慌てたように僕の袖を引っ張った。
ひどく動揺したように、その額には変な汗が浮いている。
「奥様……奥様は、どこに……?」
——ガシャン
ベルの声を遮るように、調理場とは真逆の扉から大きな物音が聞こえてくる。
食器が割れた音なのか、物が倒れた音か。
まさか。
この夫人にしてその主人までもが色魔とは考え難いが、先ほど夫人がベリルが案内していると言った。それを思い出しただけでぞわりと嫌な予感が駆け巡る。
「まさか奥様に何か……!」
「! レオン、夫人を頼む」
「わ、わかりました」
どれほど時間が経っただろうか。数分か、数十分。どれも十分過ぎるほどの時間が過ぎてしまっている。
ベルが扉を開いて早く、と促すのを聞きながら、急ぎ走る。
はやく、はやく。
数ある作品の中からこの小説を選んでくださりありがとうございます!
◇貴族の夫人
貴族の夫人は大概は働かず、ほぼ毎晩夜会らしいですね。なので朝も遅いそうです。これもしっかり調べきれていないので、知っている方おられたらご教授ください。
そのイメージでアンバーの人格を描いております。元々気質あり、貴族夫人にハマちゃった人です。このような生活が続けば、他の常識なんて吹っ飛んでしまいそうですよね。




