中編
翌日、私は軍帽に隠したあの手紙を、死体を焼くための焼却炉に入れた。
私に手紙を託したユダヤ人の男、ハンスの亡き妻ショシャナの遺体を燃やしたのと同じ焼却炉で…
どうか、この手紙が燃えて灰と煙となって、空へと舞い上がり…ショシャナのいるであろう天まで高く昇って…
どうか、この手紙がショシャナに届きますように…。
私は、祈るしかなかった。
♦♦♦
数日後、女性収容所の事務施設での任務が終り、私は元の看守に戻った。
今日も頭が痛い…。
ここ数日、私は酷い倦怠感と頭痛に悩まさせていた。
気圧のせいだろうか?
私が男性収容所を離れた日からずっと雨が降り続いていた。
ひどい湿気で常に湿っていた地面は、延々と降り続く雨水を吸ってさらにぬかるみを増していた。
囚人達の野外での工事作業は、この悪天候のために数日間中断されていた。
通常なら、囚人達は狭いバラックに閉じこもり、恵の雨による幸運の休息を過ごすはずだが、今日は違っていた。
灰色の空の下で、雨の降りしきる中、横一列に10人の囚人が全裸で立たされていたのだ。
その囚人の中には、私に妻への手紙を託したユダヤ人の男、ハンスもいた。
「脱走者が出たんだよ。二人組のユダ公が昨日の晩に突然ホームシックになっちまったらしい。そんで、そのアホなユダ公共は、現行犯で即射殺されたけど。連帯責任で、脱走豚と同じ班の豚共に雨の中で反省してもらってんだよ。糞と泥まみれのくっせえ豚共には、ちょうどいいだろ?シャワーだよ!シャワー!」
今朝、ここへ戻って来たばかりで事情を知らない私に粗暴な看守が、いつもと変らぬ横柄な口調で言った。
囚人達は皆、冷たい雨に打たれながら寒さで震えていた。
何も身に纏っていない肌は、青白くなり、数人の囚人が日々の強制労働の疲労と飢えと、この悍ましい懲罰に身体が限界を迎えたのかバタバタとその場に倒れていった。
倒れた囚人の身体は、動かなくなっていた…。
皆死んだんだ…。
「よし!あと半分で、ユダ豚全滅だぜ!賭けは、俺の一人勝ちだなぁ。」
「まだいけるだろ!全滅はないって。」
看守たちは、雨に濡れない建物の中から、哀れな囚人達を窓から眺め、その生死で賭けをしていた。
私は、賭けに加わることはなかったが、囚人達を助けることもできなかった。
私は、囚人達が見える窓から目を背けた。
私にどうしろっていうんだ?
ただの一看守の私が、上官の命令に逆らうことなんてできないだろ!
いつものように、また見て見ぬふりをすればいいんだ…。
ここに配属されてから、いつもやってきたことだろう?
私は軍人だ。
上官の命令は絶対だ。
今、ここであの囚人達を助けたからといって…どうせ、この囚人達はいずれ死ぬんだ。
囚人は、みんな死ぬんだ!
この国に必要のない人間は、全て殺すんだ!
この収容所は、そのためだけに作られたのだから…。
「あの豚まだ立ってるぜ~。あの色狂いの豚野郎!とっととくたばれよ!あいつで最後なのによぉ!」
粗暴な看守の言葉を聞いて、私は窓の外を見た。
たった一人の囚人だけが、降りしきる雨の中で懸命に立ち続けていた。
ハンスは、まだ生きている!
「オイ!?新入り、どこいくんだよ?俺達は、ここで待機中だろ?」
私は、粗暴な看守の声を無視して、部屋を飛び出し駆けだして行った。
ハンスを助けなければ!
ただ、その思いだけで私は階段を駆け下りて、雨の中の懲罰中の囚人を監視していたカポー(カポー:囚人達の労働監視や死体処理に従事する囚人のこと)に向かって叫んだ。
「懲罰は終わりだ!お前たちは、死体の始末と、生きている者を至急病院へ運べ!」
「え?命令では、囚人全員が倒れるまで終わりにしないはずでは…?」
「状況が変わった!労働力が不足しているんだ、働ける者は生かせ!」
私はカポー達に怒鳴りつけるように言うと、カポー達は腑に落ちない顔をしていたが、それ以上反論せずにそそくさと私に命じられた通り作業を始めた。
二人のカポーが、雨に打たれ続け青白くなったハンスの身体を担いで囚人用の病院へと運んで行った。
病院といっても、そこは工事作業中の小さな怪我などの手当てを行うか、ガス室へ送ることも看守が手を下すこともなく病で死ぬ間際の囚人を寝かせて置く場所でしかなかったが…。
身体の丈夫そうなハンスなら、濡れた身体を拭いて温めてやれば助かるかもしれない。
どうか助かってくれ…!!
ハンスの命を助けてくれ…!!
「――オイ!新入りぃ!お前、何勝手なことしてんだよ?」
背後から粗暴な看守に肩を捕まれて、私は我に返った。
私は、上からの命令を無視して囚人を助けてしまった!!
数人の仲間の看守たちが私の周りを取り囲むように詰め寄って来た。
命令違反の私は、処分される…!!
私は、何とかその場を取り繕おうとしたが声が出なかった。
私の仲間であるはずの看守達の目が、私を異質な者を見るような怪訝そうな瞳で見つめていたからだ。
頭が酷く痛い。
全身から血の気が引いていくようだ…。
強烈な寒気と眩暈に襲われて、私はその場に立っていられなくなった。
眩暈のせいなのか?
目の前の景色が歪み…そして、何も見えなくなった。
「大丈夫か!?オイ!しっかりしろ!」
身体から力が抜けて、その場に倒れ込みそうになった私の身体を誰かが抱き留めた。
目の前が真っ暗で何も見えない…。
私は、そのまま意識を失ってしまった…。
♦♦♦
どのくらい時間がたったのだろうか…?
私は、死んだのだろうか?
母さん…!姉さん…!
私は…僕は、酷い人間だ!
任務だからといって、囚人を殴ったり、蹴ったり、暴行をくわえて、銃口を向けて…。
たくさんの囚人を殺した…。
助けられるかもしれない何人もの人を見殺しにしてきた…。
きっと、僕は、父さんのいる天国へはいけないだろう…。
僕がここでしてきたことを考えれば…それは、当然の報いだ。
♦♦♦
酷い喉の渇きを覚えて、私は目を覚ました。
まだ、私は、生きている…。
目を覚ました私は、清潔なベッドの上にいた。
「―――あぁ、良かった!意識が戻ったんだね。」
私はベッドの上に寝たまま、聞き覚えのある優しい男性の声の方を振り向いた。
「義兄さん…!あっ、いえ…!失礼致しました!た、大尉殿…!」
私の姉アンナの夫である軍医だった。
私はベッドから半身を起こして、ベッドの傍らの椅子に腰かけている白衣姿の義兄に向かって深く頭を下げた。
「あはは。君と私は家族なんだから、ここでは階級のことは気にしないでくれ。それより、気分はどうだい?君が高熱を出して倒れたって聞いたから、仕事をほっぽり出してここまで駆けつけて来たんだよ。君は、高熱のせいで丸3日も意識が戻らなかったんだよ。本当に心配したよ。大切な弟の君の身に何かあったら、アンナが卒倒してしまうからね!あれは、誰よりも君の身を案じているからね…。」
義兄は、私とは別の収容所に勤務している。
「ご心配をおかけしてしまって、本当に申し訳ありません…!」
「いや、気にしないでくれ。私は君のおかげで、久しぶりに医者らしい仕事をすることができたんだ…。」
義兄は、悲しげな瞳で天井の方を見上げながら言った。
彼の顔は、以前に会った時よりも酷くやつれていた。
義兄の沈痛な面持ちから、彼が勤務している収容所から聞こえて来る醜悪な噂話は、事実であることを物語っていた。
「きっと私は、天国へは行けないだろうな…。君も知っているだろう、私の収容所で生きた囚人を使って、悍ましい研究をしていることを…。」
義兄は、温厚で誠実な男性だ。
誰に対しても分け隔てなく接する深い愛情を持った人だ。
姉の家柄も学歴も、片親であることも、私たち家族のことを全て理解し受け入れてくれた人だ。
血の繋がりはなくても、男親も男兄弟もいない私にとって、彼の存在は親しみのある兄のようであり、頼りになる父のようでもあった。
「私は、ここでの任務が終ったら医者を辞めるつもりだ。もう、私に医者を名乗る資格はない…。君が私の最後の患者になるだろう。」
「義兄さん…。」
「この戦争は、もうすぐ終わる。戦況は、かなり悪いらしい…。この戦争が終ったら、私は法の裁きを受けるつもりだ。私が収容所でやってきたことは、医者である前に人間として決して許されるべきことではない…。私の罪は、極刑に値することだろう。」
「義兄さん…!何を言ってるんですか…!?貴方がいなくなったら、姉は…!アンナはどうなるんです!?」
「だから、君は生き抜いてくれ。この戦争を生き抜いて、生きてアンナの元へ帰るんだ。彼女には、君が必要だ。どうか私に代わって、彼女を支えてやって欲しい。」
「義兄さん!よしてください…!!そんな約束できません…っ。僕だって…!僕だって、ここで許されないことをしてきたんです!僕もたくさんの囚人達を…!!」
私がここで囚人達にしてきたことも、万死に値する罪だ。
「君に罪はない。元をたどれば、私が君をこの収容所に配属させるために裏で手を回したんだ。君も、ここで辛い経験をしてきたんだね…。君が高熱を出したのも、肉体的な疲労より、精神的な影響が強いようだ。本当にすまなかった…。」
「謝らないでください!僕は義兄さんのおかげで、今ここに生きているんです!僕みたいなひ弱な男が過酷な前線に送られていたら、今頃死んでいました。義兄さんは、僕の命の恩人です。義兄さんも必ず生きて、姉の元に帰って来てください!」
「君は、本当に心の優しい子だね…。アンナがいつも君のこと自慢していたよ。私の弟は、小さい頃から誰かにいじめられて泣かされることは多かったけど、あの子が誰かを傷つけて泣かせたことは一度もなかったってね。」
「嫌だな…!姉さん、そんな昔のことまで話してたんですか…。」
「あぁ。たしか、君が最後におねしょをしたのは6歳の時に幼稚園のお泊り会で、」
「うわぁああああ――――!?それ以上言わないでください…!!」
姉さんったら、本人が忘れかけていた恥ずかしい思い出まで義兄さんに話していたのか!!
「はははっ。ごめんよ。アンナから君の可愛いエピソードをたくさん聞いているんだ。だから、私にとって君は、離れて暮らしていてもとても身近な存在なんだ。私は、君のことを実の弟のように思っているんだよ。」
「僕も同じ気持ちです!」
「ありがとう。うん、顔色がだいぶ良くなってきたね。高熱にうなされていた時は、顔から血の気が引いて真っ青だったからね。念のために、あと2,3日は安静にしていた方がいいだろう。」
「そんなに休んでいられませんよ!」
私は3日間も意識を失っていた。
ハンスは、どうなったのだろう?
私は今すぐにでもベッドから起き上がって、囚人用の病院へ駆け出して行きたかった。
ベッドの布団の中から出ようとする私を、義兄が制止した。
「仕事のことなら心配しなくていい。私が君が充分な休養を取れるように診断書を書いてあげよう。」
「ですが…!」
そういえば、私の命令違反の件はどうなったのだろう?
私が意識を失っている間に、同僚の看守達から上官に報告されているはずだ…。
「良いから、今はゆっくり休みなさい。君の同僚達もとても心配していたよ。同僚たちの話では、君は事務処理の任務から戻って来てからずっと顔色が悪かったそうだね?君が倒れた時も体格の良い大柄な看守の男が君の身体を担ぎ上げてここまで運んできてくれたそうだ。君が意識を失っている間も、同僚達が代わる代わるお見舞いに来てくれてたんだよ。」
私が意識を失う直前、私を抱き留めたのはあの粗暴な看守だった。
囚人に対しては、血も涙もないようなあんな乱暴の男が、私の身体を担いで病室まで運んできてくれたなんて…。
仲間の看守達が私に詰め寄って、私をいつもと違う目で見ていたのは、私の体調を気にしていたからだったのか…。
「君は、同僚達からも慕われているんだね。元気になったら、きちんとお礼を言うんだよ。」
「はい…。」
なぜなのだろう?
看守達は、仲間の私の体調を思いやる優しさがあるのに――囚人達に対しては、ひとかけらも慈悲はなかった。
あの女性収容所の事務員の女性もそうだ。
疲労していた私のために温かいお茶を淹れてくれた手の指には、ハンスの亡き妻ショシャナから奪った結婚指輪がはめられていた。
私達は、人種や立場の違いだけで、なぜここまでも冷酷で惨忍になれるのだろうか?
「――そうだ!大事なことを忘れていたよ。」
義兄は、何かを思い出したように白衣のポケットから四つに折りたたまれた一枚の紙きれを取り出した。
この粗末な紙きれは、見覚えがある!
「囚人用の病院にいたユダヤ人の男からこれを預かったんだ。君の診察に来たついでに、囚人用の病院にも顔を出して来たんだ。この収容所の病院も酷いものだったよ…。不衛生で悪臭が立ち込めていた…。」
「義兄さん!その手紙をくれたのは、ハンスという男ですか!?」
「いや、名前は聞いていないが…。やはり、あのユダヤ人の男が言っていた若い看守というのは、君のことだったんだな。男が話していていた人相が君に良く似ていてから、まさかと思ったが…。」
「ハンスは生きているんですね!?」
「あぁ。私が2日前に会った時は、ひどく衰弱はしていたが意識は、はっきりとしていた。そのユダヤ人の男は、私がこの収容所ではない外部から来た医者だと言うと、この紙きれを差し出して『どうかこの手紙を私の命を救ってくれた若い看守に届けて欲しい』とお願いしてきたんだ。私は、断ろうと思ったが、その男が何度も何度も頭を下げて懇願するものだから、つい引き受けてしまってね…。」
ハンスが生きている!
そして、私に手紙を書いてくれた?
義兄は、私にハンスから預かった手紙を手渡した。
私は震える手で、ハンスからの手紙を強く握りしめた。
「ユダヤ人の男から全て聞いたよ。君は、あの男の妻に手紙を届けようとしたんだね?それだけでなく、命令違反をしてまで連帯責任で死の懲罰を受けていたあの男の命を救った。やはり、君は私とは違う…。君のような人間こそが平和な未来のために必要だ…。」
「僕は、そんな大した人間じゃないですよ…。義兄さん、手紙を届けてくれてありがとうございます…!貴方には、感謝してもしきれないです…!」
「――では、私はこれで失礼するよ。くれぐれもお大事にね。君は、何があってもこの戦争を生き抜くんだ。」
「義兄さんもですよ!どうか、早まらないでください。もしも、アンナを悲しませるようなことをしたら、僕は貴方を一生許しませんよ…!」
「あははっ。心配ご無用。愛する妻と可愛い弟を遺して死ぬわけにはいかないだろ?――さよなら、お大事にね。」
♦♦♦
これが、義兄との最後の会話になるとは、あの時の私は夢にも思わなかった。