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最後の手紙  作者: いちごのショートケーキ
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前編

 第二次世界大戦中、「反ユダヤ主義」を掲げる総統アドルフ・ヒトラーによる独裁国家ナチスドイツにより行われたユダヤ人の大量虐殺。


 ヒトラーの掲げた「反ユダヤ主義」は、古来より根深い人種差別的思想に基づいているが、この大量虐殺は、毛髪、肌の色、瞳の色などの身体特徴で人種の優劣を選別し、虐殺は身体障がい者、精神障がい者にも向けられ、歪んだ優生思想によって科学的な人種差別が組織的に行われた。

 

この悍ましいユダヤ人絶滅計画によって生命を奪われたユダヤ人は、600万人にも及ぶ。


 ナチスドイツは効率的に大量殺戮を行うために、当時占領下にあったポーランドの各地に多くの強制収容施設を建設した。


 強制的に収容された人々は、過酷な労働を強いられ、劣悪な衛生環境、看守による虐待や暴力により命を落とし、病人や障がい者など労働力にならないとみなされた人々は、ガス室への送られた。


 収容施設の中でも最大規模のアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所では、建設された1940年から1945年の数年間に110万人以上のユダヤ人が犠牲になった。



―――本作は、第二次大戦下のアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を舞台にホロコーストを題材とした作品です。作品の性質上、暴力的な描写や差別的な表現がありますが、あくまでも反戦をテーマにしています。




 

 


 『最後の手紙』





 その日は、どんよりとした曇り空だった。


 夏はまだ先だというのに、酷く蒸し暑く、汗を吸い肌にまとわりつく軍服のシャツの感触が不快だ。


 とにかく湿気が酷い。


 この収容所に配属されて、もうひと月以上経つが、この湿気には心底うんざりしている。



 これで、冬には氷点下20度まで下がるらしい…。


 

 戦いの最前線に送りこまれるよりは、はるかにマシだとは思うが…。



 私の目の前では、縦縞模様の些末な服を着た囚人たちが黙々と額から流れる汗も拭わずに労働を続けていた。


 どの囚人も、骸骨のようにやせ細り、ほとんど骨と皮しか残っていないような腕で工事用のスコップやつるはしを動かす。

 

 囚人たちは、空に朝陽が上がる前の暗い時間から飲まず食わずで作業を続けているが、誰も決して手を休めることはない。


 少しでも手を止めたら、()()からどんな恐ろしい罰を受けるか知っているからだ。





「A班、B班、作業止め―ッ!!」


 私の隣にいた上官の発した野太い声の号令に、囚人たちは一斉に作業をやめて、作業道具を持ったまま私達の前に横一列に整列する。


 囚人たちは、看守から次の命令が出るまで直立不動の姿勢で立ち続けなければならない。


 この整列は、看守が囚人たちの点呼を取る目的と彼らの健康状態を確認するためだ。


 足がふらついて直立した姿勢を保てない者、顔色の悪い者…少しでも体調不良が見られた者は「病人」と見なされる。 

 

 この収容所で「病人」とは「労働力にならない者」のことだ。


 この収容所で、病人に与えられるのは薬や休息ではなく……死だけだ。



 この死の選別のための整列は、日に何度も行われる。


 

「――よし!これより、朝食休憩に入る!休憩の後、A班は工事続行、B班は焼却炉清掃、以上!」


 今回は、病人は出なかった。


 休憩と聞き、強張っていた囚人たちの顔にわずかに安堵の色が見える。


 囚人たちは、縦一列に並んで歩いて朝食が用意されているバラックへと向かう。 


 私は、囚人たちの後ろに付き不審な動きをする者がいないか銃を構えて監視しながら進む。

 

 突然、私の前を歩いていた一人の囚人が立ち止まる。



 脱走か?反抗か?



 囚人は、ゆっくりと私の方を振り向いた。


「なぜ、立ち止まった!?早く歩け!!」


 私は、振り向いた囚人に銃口を向けながら叫んだ。


「ひぃっ…!?やめてくれぇー!う、うたないでくれぇええ~!」


 囚人は、その場にしゃがみ込むと両手で頭を抱えて怯えた顔で私の顔を見つめながら泣き叫んだ。


 その囚人の服の胸には、黄色い三角形の布を二つ組み合わせた「ユダヤ人の印」が縫い付けられていた。


 そのユダヤ人の男は、白髪の混じった頭や顔に刻まれた皺の具合から見て、歳は老年期に差し掛かったくらいだと思われる。



 私は、ふと幼い頃に亡くなった父が生きていたら、この男くらいの歳だったかもしれないと思った…。



 男は、他の囚人と比べると肉付きが良いことから、この収容所に来てまだ日が浅いのかもしれない。


「立て!なぜ急に立ち止まったんだ?」


 私は、しゃがみ込んだままビクビク震えて泣いている男の腕を掴んで、無理矢理立ち上がらせた。



「――新入り、どうした?何かあったのか?」


 この騒ぎを見て、私と歳も階級も同じだが、私より1年も前からここに配属されている看守が駆け寄って来た。


「この男が急に立ち止まったので、そのことを問い詰めていたのです。」


「ふ~ん。オイ!ユダ公!朝飯が欲しくないのかー?」


 看守の男は、馴れ馴れしくユダヤ人の男の肩に手を回して、茶化すように話しかけた。


「いえ!そういうわけでは…。」 


「お前は、まだ肉付きが良いから飯はいらないんだろぉ~?ほら、見て見ろよ、他のユダヤ野郎はみんな骸骨みたいだぜ~!あいつらが骸骨なら、お前は豚だな!ユダヤの豚野郎!」


 看守の男は、ユダヤ人の男の腹に握り拳を振り下ろした。


「ウグゥ…ッ!!」


 腹を殴られたユダヤ人の男は、痛みでその場にうずくまってしまった。


「あぁーっ!やっぱり肉付きの良い豚の腹殴るのは気持ち良いぜ!他のやつは骨ばっかで、殴ると手が痛くってよぉ~。」



 この収容所では、看守が囚人に理不尽な暴力を行うのは、日常茶飯事だった。  


 こういう光景は、この収容所に配属されてから何度も見てきた。

 

 私は、看守の男を咎めることも、殴られたユダヤ人の男を助け起こすこともせずにただ立ち尽くしていた。


「これに懲りたら、隊列を乱さずにちゃんと歩けよ!豚!能無しの豚だって、それくらいはできんだろ!」  


「うぅ…っ。わ、私はただ…。こ、この手紙を、私の妻に届けてもらおうと…」


 ユダヤ人の男は、殴られた腹を片手で押さえながらよろよろと立ち上がると、囚人服の胸ポケットから4つに折りたたまれたボロボロの一枚の紙きれを取り出した。 


「妻への手紙だってぇ~?この紙きれが?」


 看守の男は、ユダヤ人の男の手から紙きれを奪い、折りたたまれた紙を開いた。


「なになに~『愛するショシャナ。身体の弱い君のことが心配で、心配で、私は夜も眠れないよ。いつも君のことを考えている。こんな場所でも、どうか君が幸せに毎日笑顔で過ごせていることを願っているよ。ショシャナ、心から愛してるよ。ショシャナ、愛してる。君に会いたい…プッ!クククッ!アーッハハハハハハハッ!!なんだよこれぇ~!!豚のくせにラブレターなんか書いてやがんぜ!!」


「お願いします!どうか、この手紙を私の妻ショシャナ・ブロディに届けていただけないでしょうか?私の妻もこの収容所にいるのです!」


 ユダヤ人の男は、看守の男の前で地面に両手をついて土下座しながら、必死に訴えた。


「ショシャナの髪は、白髪まじりの黒で、瞳の色はグリーンで、たれ目がちの優しい目をしていて…!背は私と同じくらいで、指には薔薇の花の飾りが付いたダイヤの指輪をしていて…!」



 ヨーロッパ各地から家畜用の貨物列車でこの収容所まで運び込まれてきた囚人たちは、まず男女の性で分別される。


 たとえ夫婦や恋人同士であろうとも、親子であろうとも男女の性が違えば、その場で引き離される。


 この男の妻も、女性の収容所にいるのだろう。


「お願いします!どうか、この手紙を…グフゥッ!」


 看守の男は、土下座していたユダヤ人の男の顔面を片足で蹴り上げた。


「この色狂いの豚がッ!!お前みたいな豚には、特別なお仕置きが必要みたいだなぁ~。オイ!新入り、俺は、このユダヤの豚野郎を懲罰室で躾けてくるから、後は頼むぞ。オラ!立てよ、豚!」


 看守の男は、手に持っていた手紙を投げ捨てると、ユダヤ人の男の首根っこを掴んで立ち上がらせた。


「ひぃぃっ!すみません…!許してください!懲罰室だけは、やめてください…!」


 ここへ収容されて日が浅い男にも、懲罰室の恐ろしさについて知っているようだ。


 懲罰室は、その名の通り看守に対して反抗したり、収容所の規則を守らなかった囚人に懲罰を与える部屋だ。

 

 懲罰室に連れてこられた囚人は、狭い個室の中で看守に懲罰という名目で数日間(罪状の重さ、あるいわ看守の気分で日数は変わる)に渡って飲まず食わずで激しい暴行を受け続ける。日々の過酷な労働で衰弱した囚人は、この暴行によって命を落とす者も多い。


「どうか、お許しください…!真面目に働きますから!どうか、どうか、懲罰室だけは…!」


「オラ!さっさと歩け!豚!」 


 看守の男は、泣いて許しを請うユダヤ人の男の背中に銃口を突き立てながら懲罰室へ向かって行った。


 この光景も何度も見て来た。


 

 ただ、いつもと違ったのは、私の足元にあのユダヤ人の男が妻に向けて書いた手紙が落ちていた。


 手紙といっても、本当に一枚のただの紙切れだった。


 私は、辺りを見渡して、誰もこちらを見ていないのを確認してから、こっそりとその紙切れを拾い上げた。


 紙切れには、さっきの看守が読み上げた、愛する妻への言葉がびっしりと書かれていた。


 『お願いします!どうか、この手紙を妻に届けていただけないでしょうか?』 


 手紙の文字を読んでいるうちに、先ほど土下座をして必死に懇願するあの男の顔と声が私の脳裏にまざまざと蘇った。


 私は、その手紙を誰にも気づかれないように、軍帽の中に仕舞った。

 

 収容所内での囚人同士の手紙のやりとりは、男女を問わず禁止されているため、本来ならこの手紙は焼却処理されるべきものだ。


 だが、私にはそれが出来なかった。


 この一枚の紙きれに刻まれた、妻への愛の言葉がそうさせたのか…?


 あのユダヤ人の男が自分の亡き父と同い年くらいだったからなのか…?

 

 日々、繰り返される私たち看守の囚人達への理不尽で残忍な行為に、とうとう私の良心が限界を迎えたからなのか…?



 理由は、どうあれ私はこの手紙をユダヤ人の男の妻ショシャナ・ブロディに届けたいと思った。


 しかし、それは容易な事ではない。


 男性用の収容所の看守である私が上からの許可なしに女性用の収容所へ立ち入ることは、できない。



 それでも、私は軍帽の中に隠した手紙を捨てることはできなかった。


 



♦♦♦




 翌日、午後になりあのユダヤ人の男が懲罰室から釈放された。

 

 あの看守の男に手酷く痛めつけられたらしく、顔は何度も殴られたのか別人のように腫れあがっていた。


 見た目は痛々しいが、身体の方は歳の割に丈夫なようで黙々と工事作業に勤しんでいる。


 男は休憩時間になると、早々と食事(食事と言っても、囚人に与えられるものは、薄い一切れのパンと豆が数粒入った味のしないスープだけだ)を済ませて、工事現場に戻ると地面に四つん這いになって何かを探していた。


 きっとあの手紙を探しているのだろう…。


「オイ!豚ぁ!ブヒブヒ四つん這って、食い物でも探してんのかぁ~?」


 あの粗暴な看守の男がユダヤ人の男の元へやって来た。


「ひっ、ひぃ…っ!い、いや、別に…そのぉ…」


 ユダヤ人の男は、懲罰室での暴行ですっかりこの看守の男に対して怯えきってしまっている。


「お前には、まだ躾が足らねぇみたいだなぁ~?どうだ、またあのお仕置き部屋で俺と仲良くやろうや!」


 看守の男は、四つん這いになっていたユダヤ人の男の首根っこを掴んで無理矢理立ち上がらせる。


 また懲罰室送りにする気だ。


「待ってください!」


 私は、思わず看守の男を呼び止めた。


「あぁ!?なんだよ、新入り!俺のやることになんか文句あんのかぁ!?」


 この看守の男は私よりもずっと体格が良く、乱暴者で囚人以外にも気に入らない相手には誰であろうと(上官は除く)平気で暴力を振るうことで有名だ。


 男は、ユダヤ人の男の首根っこを掴んだまま私に詰め寄って来た。


「工事作業が予定よりも大幅に遅れています。これ以上、人員を減らされると困ります。上からも、期日までに竣工しろと念押しされてますから…。」


「――チッ!工事が遅れてんのは、ユダヤの豚野郎どもがノロマだからだろ!」


 看守の男は、ユダヤ人の男から手を離すと、面白くなさそうに地面に置いてあった工事用の機材に蹴りを入れて去って行った。 

 

 

「ありがとうございます…!ありがとうございます…!」


 ユダヤ人の男は、ほっとしたようにその場にしゃがみ込むと私に何度もお礼を言った。


 私もその場にしゃがみ込んで、目の前のユダヤ人の男の胸倉を掴かみ、力を少し加減して一発の拳を男の頬に食らわせた。


「休憩時間中に勝手に現場に戻るな!次に命令違反をしたら銃殺刑だからな!」


 私は、男を怒鳴りつけながら片手の指で地面に文字を書き、目線で男に地面に書いた文字を見るように促した。



 『手紙は私が届ける。このことは誰にも言うな。』 



 男が私が書いた文字を読み終えたことを確認すると、ブーツの裏でサッと書いた文字を踏み消した。


 男は、驚いたような顔で私の顔をまじまじと見ている。


「何をボサっとしている!さっさと戻れ!!」 


 男は、立ち上がって私に一礼すると休憩所のバラックの方へ駆けて行った。


 

 駆けて行く男の背中を見ながら、私は我に返った…。



 とんでもない約束をしてしまった…!



 たかが一看守の私が囚人の妻に手紙を届けられるような権限などはない…。


 私は途方に暮れてしまった…。

 



♦♦♦





 好機は、突然訪れた。


 私は、上からの命令で、女性収容所内にある事務関連の施設へ短期の配属となった。


 ここでは、収容された囚人たちの身元や経歴に関するデータの管理が主な仕事だ。


 事務施設は、簡素ではあるが囚人の寝起きする粗末な造りのバラックと比べたら、ずっと上等な造りで、空調も整っており、囚人のバラックが犬小屋なら、ここは高級ホテルのエントランスのようだった。


 事務職員たちは、それぞれのデスクで黙々と事務作業に勤め、時折、電話のベルや事務的な話し声、壁にかかった振り子時計の時間を告げる鐘の音が鳴るだけで、実に静かだった。


 私は、与えられたデスクで事務作業をしつつ、膨大な数の囚人のデータの中から、あのユダヤ人の男の妻ショシャナ・ブロディの名を探した。


 男が言っていたショシャナの特徴は、白髪まじりの黒髪、瞳の色はグリーン、たれ目がちの目、背はあの男と同じくらいで、指には薔薇の花の飾りがついたダイヤの指輪をしている。


 私は、注意深く囚人のデータを探した。




「――遅くまでご苦労様。ちょっとお茶でもしない?」


 この事務施設の専属の事務員の女性が私に声を掛けた。


 壁の時計を見ると、勤務時間をとっくに過ぎていた。


 昼間は数十人はいた事務員も今は私と、この女性事務員だけになっていた。


 美しいブロンドの髪に碧眼の若い女性事務員は、堅い軍服を身に纏っていても、女性特有のふくよかでなよやかな美しい身体のラインや、甘い香水の香りは、昨日まで、男しかいない環境にいた私にとっては、ひどく遠い存在で、懐かしく感じた。


 この美しい女性事務員は、歳は私の姉くらいだろうか…。


 私の姉アンナは、私よりも10歳年上で、看護師をしていた。


 父を早くに亡くしてから、母は身を粉にして働いて私達を育て上げてくれた。そんな母を支えるために、アンナも子どもの頃から母の仕事を手伝いながら幼い私の面倒をみてくれた。


 私の大学の学費も、ほとんどがアンナが看護師として働いたお金だった。


 現在、アンナは、軍医と結婚して家を出ている。

 

 アンナの嫁いだ家は、古くから代々続く優秀な軍医の家系で、軍の上層部とも繋がりが深く、私が戦い全線ではなく、この収容所に配属されたのも、姉の夫の口添えのおかげだ。


 

「貴方みたいな若い人が手伝いに来てくれて本当に助かったわ。さぁ、どうぞ。遠慮しないで、召し上がって。」


 女性事務員は、私を来客用のソファー席に招くと、淹れたての紅茶と焼き菓子をすすめてくれた。



「いただきます。」

 

 私は、紅い紅茶が入った白いティーカップに口を付けた。


 淹れたての紅茶をひとくち口に含むと、乾いていた喉に温かい紅茶が優しく沁みわたり、甘い芳醇な香りが慣れない事務作業で疲れ切った身も心も癒してくれるようだった。


「どう?なかなか良い紅茶でしょう?」


「はい、とっても美味しいです。」


「でしょでしょ!やっぱり、茶葉が良いからよね~。これだけコクのある味わいと香りのアッサムは、なかなか手に入らないわよ。」


 女性は自慢げに腕を組んで、ふふんと鼻を鳴らして言った。


 その仕草がまるで無邪気な少女のように可愛らしくて、彼女と会話をしているうちに私の心は和んでいた。


「茶葉もさることながら、淹れ方も良いんですよ。あなたみたいな美人が淹れて下さったから格別に美味しいです。」


「まぁ!貴方、まだ若いのに口がお上手ねー。」

 

 女性は、まんざらでもないようで、嬉しそうに赤く染まった頬を両手で押さえながらはにかんだ。 



 その時、私は女性の右手の人差し指に、眩く光る物を見つけた。




 それを見つけた時、私の心臓は凍り付いた。




 女性の指にはめられていたのは、銀色の薔薇の花の装飾がされたダイヤの指輪だった…。




「――あら?この指輪がどうかしたの?」


 女性は、私の視線に気づいたようで、右手の人差し指にはめられた指輪を片方の手で指さしながら聞いた。


「い、いえ…別に…。綺麗な指輪ですね…。」


 私は、なんとか平静を装いながら言った…。 

 

「うふふ。ありがとう。――実は、この指輪は囚人から押収したものなのよね。」


 女性は、少し声を潜めて言った。


「この指輪、ある囚人の女の口の中にあったらしいのよ。ガス室で処分された囚人はね、死んだ後に口をこじ開けて金歯を抜かれるの。ここへ収容されて来た時に囚人の私物は全て没収されるけど、中には貴重品を体の中にこっそり隠してる輩がいてね。この指輪の持ち主の女もガス室で処分されたんだけど、口の中に指輪を隠していたの。」


 この指輪の持ち主の女は、ガス室で処分された…。


「ほら、指輪に持ち主の名前が彫ってあるでしょ?二人分の名前が彫ってあるから、多分、結婚指輪ね…。」 


 女性は、無感動に指輪を指から引き抜いて私に手渡した。


 私は、震えた手でそれを受け取った。

 

「大丈夫よ。ちゃんと良く洗って薬品で消毒してあるから。」


 女性は、私の手の震えを潔癖から来る嫌悪感だと思ったらしい。



 指輪に掘られた名前は…ハンス&ショシャナ

 

 

 ハンスは、きっと、あのユダヤ人の男の名前だ。



 ショシャナは、ガス室で死んだんだ…。



「囚人の押収物の着服なんて、みんなやってることよ。貴方が飲んだ紅茶の茶葉だって、囚人から押収したものよ。そこそこ大きな貿易会社の社長でね、これを献上する代りに自分と家族の収容所での待遇を良くしてくれって自分から賄賂として差しだして来たのよ。」


 女性は、硬直した私の掌の上から指輪を取って、自らの指にはめながら言った。


 さっきまで、私の身も心も癒してくれた温かい紅茶が…今は、悍ましい呪われた毒液のように思える。


「――大丈夫?顔色が悪いわよ?ごめんなさいね、私が嫌な話をしてしまったからかしら…。」  


 女性は、心配そうに私の顔見つめながら言った。


「いえ…。お茶、ごちそうさまでした。」


 私は、女性にお礼を言うと、事務作業途中の書類や筆記具が残ったままのデスクを片付けずに、事務所を出て、雨が降りしきる中を傘もささずに寄宿舎まで無我夢中で走り出した。




 ショシャナは、死んでいた!



 あのユダヤ人の男、ハンスの手紙にショシャナの身体が弱いと書かれていたのを見た時に、嫌な予感はしていたが…。



 この収容所で「病人」とは「労働力にならない者」のことだ。


 この収容所で、病人に与えられるのは薬や休息ではなく……死だけだ。




 きっと、ショシャナは、ここへ連れてこられてすぐに愛する夫と引き離されて、死の選別をされて、ガス室へ連れて行かれて…



 私物を全て取り上げられ、頭の毛を全て剃られて、「シャワーを浴びるため」と言われて衣服を全て脱がされ…


 丸裸にされて、全てを奪われても…愛する夫から貰った結婚指輪を、愛する夫との夫婦の証であるあの薔薇の飾りがついたダイヤの指輪だけは!


 夫への愛だけは、誰にも奪われたくは、なかったんだ…!!



 だから、誰にも奪われないように指輪を自らの口の中に閉まって…



 たくさんの囚人達とシャワー室と呼ばれる場所に入れられて、いくら待っても天井のシャワーからお湯も水も出ることはなく…


 

 そのうちに猛毒のガスが、シャワー室を死のガス室へ変えて…



 息苦しさと、朦朧とする意識の中で…



 最期まで、愛する夫のことを思いながら、死んでいったんだ…。




 


 そして!()()は、死んだショシャナの口を無理矢理こじ開けて、夫婦の愛の証を奪ったんだ!!


 ()()は、人の命だけでなく、愛までも奪ったんだ!!

 


 

 ハンスとショシャナの愛も、二人の幸せな未来も…!!




 全部、全部、()()が奪っているんだ!!!



 

 ハンスとショシャナだけではない。


 


 私は、多くの人間の命と愛と未来を奪っているんだ…!!





 私は、心の中で懺悔しながら走り続けた。





♦♦♦





 



 軍帽に隠した手紙はどうしたらいいのだろう…。



 手紙を届ける相手は、もうこの世にいないのだ…。



 ショシャナは死んだんだ…。


 

 


 私は、どうすればいい!?















 



  

 




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