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不完全性リバース

作者: SS

「うぷっ......」


 一瞬、吐き気がした。大した話ではない。体育の授業で疲れた状態で、梅雨のジメジメとした空間に包まれ、お弁当に入っていた嫌いなカボチャを唾液とともに溶かし飲んでいた。雨は十分の一、昼食前の体育の授業は七分の一、結構な頻度で入れられるが嫌いなことは内緒にしているカボチャは、五分の一、計算すると三五〇分の一。年に一回といったところだろうか。

 僕は吐き気を抑え、水を流し込む。舌に残ったカボチャを洗い流すとともに、喉にかけられていた圧力も消えていった。多少吐き気がしたところで、人はそう簡単に吐くわけではない。誰だって、吐き気を無理やり押し戻した経験は少なくないだろう。

 それは稀であっても珍しくはない、僕の昼休み。しかしそれは、頻りであって珍しい、彼女の昼休みでもあった。


 彼女の名前は山本 水菜。今年から同じクラスになって、つい先日、席替えで斜め前の席に位置していた。1日、2日で隣ですらない女子と話があるはずもなく、僕と彼女はおそらく会話したことがなかった。ただ、彼女はクラスのTOP的な女子の近くにいたため、顔と名前は一致している。

 お弁当を片付け、僕は友達のところに行こうとした。彼女の机の後ろを通ろうとする。彼女は姿勢よく背筋を伸ばしながら何処かを見ていて、ボーっとしている、という印象を受けた。椅子を退かしてもらいたかったため、慎むことなく要求する。


「ごめん、通る」


「あっ、うん」


 彼女は僕に気づくと、椅子を引いた。お互い特別な意図も何もない。彼女への関心がないから、僕は遠慮しない。僕への関心がないから、彼女は謝罪もなければ不快感を表すこともない。本当にただの顔見知り程度だった。

 しかし、話題があるならば、僕は彼女を知りたいと思う。彼女の机にお弁当が置いて無かったのだ。この学校では早弁は許されないし、彼女が規則を破ってまで食べているとは思えない。少し違和感を覚えた。

 片付けただけだろう。でも彼女が食べていた覚えがない。もしかしたらお弁当もお金も忘れたのかもしれない。けれど、だとしたら他の女子にお金でも貸してもらえればいいじゃないか。様々な想像が頭を巡る。

 結局、彼女と話すことはなかったが、これが彼女に興味を持った初日のことである。


 翌日。いつも通り授業を受け、少しトイレを挟み、お弁当の蓋を開ける。すっかり昨日の彼女のことなど忘れていたが、まさかの2回連続カボチャに思い出させられた。

 僕は彼女の方を見る。彼女は今日も、ご飯を食べず、時計の方を生気なく見つめているだけだった。僕は彼女の隣の席、つまり僕の前の席の女子を見た。彼女と隣の席のその子は、それなりに仲良く話している。どのぐらいの関係かは知らないが、お金ぐらいは貸し借りできるのではないだろうか。

 しかし、彼女の隣の席の子は、美味しそうにご飯を食べ進めるだけ。お金を貸すどころか、彼女がご飯を食べていないことすら気付いていないようだった。

 そんなこと、あり得るのだろうか。隣の子視点は、ただ本当に気づいていないだけの可能性も普通にあるだろう。彼女は...... お金の貸し借りを嫌う人。そういうことなのだろうか。知りもしない女子の関係を勝手に邪推してはいけない、そういうことだと思っておこう。そう自分を納得させようとした時、前提を覆す異常な様子が映った。


 隣の女の子が、彼女に話し始めた。


「どこ見てんの〜?」


「ん、時計の針だよ。なんかぼんやりできるの」


「まあまあ分からなくはないかも」


 話している内容は大したことではない。話しているという事象そのものが、異常なのだ。昼休みも始まったばかりで、自分のお弁当もまだ殆ど手をつけていないというのに、彼女のご飯が無いことに何一つ疑念を感じていないのだ。

 僕は箸を置き、彼女たちの会話が終わるのを待った。約1分。他愛のない会話が続いていただけ。僕の解釈が否定されることはなかった。隣の席の子が再びご飯に集中し始めたのを見計らい、僕は彼女へと話しかける。


「ねぇ、ご飯は食べないの?」


 挨拶もしたことのない男子から、急に話しかけられたのだ。当然彼女は、目を大きく開いて、ビクッと身体を動かす。そんな当たり前のことすら配慮できないほど、僕の頭は机の上にないお弁当のことで埋まっていた。一直線になってしまうのは僕の悪い癖だ。

 彼女は一時驚いたものの、すぐに平常通りになり、親しみを込めた目でこっちを向いた。僕自身はただ疑問を解消したいだけだったが、心配されていると勘違いをしたのかもしれない。「大丈夫」とでも言いたげな雰囲気だった。


「私、昼ご飯は結構後に食べるタイプなんだよね〜」


 そ、そんなタイプがあったのか! と一瞬思ったが、そんなはずはない。中学から高校一年までそんな人は見たことがない。例え昼休みでもお腹が空かないとしても、彼女の午前中の元気度合いを見る限り、何もせずただ座っているだけなんてことはないはずだ。時間が無いなんてもっと有り得ない。

 とはいえ、彼女にどう聞けばいいんだろうか。「お腹空かないの?」と聞くのも、「なんで動かないの?」と聞くのも違う気がする。お腹は空いていない。時計を見つめるのが好きなだけ。返答は簡単に予想できる上、僕が何も考えずガツガツ聞いたところで、リスクはあれどメリットはないのだ。

 僕はとりあえず、深くは追求せず、彼女を横目で観察することに決めた、、、、、、......なんで無視して忘れるという選択肢がない? 惹かれている? そんなことが?


「そうなんだ、急にごめんね。気になって」


 自分の気持ちをまだハッキリと理解できていないにも関わらず、彼女にほんの少しだけ意図的なモーションをかける。チョロい、もう青春の物語を始めている。......一瞬だけ映った彼女の顔を反芻しながら、僕は自分の席に戻り、お弁当を食べ始めた。


 それからというもの、昼休みは彼女の机の上を見るというルーティーンができた。彼女がお弁当を持ってきた日は、未だに一度もない。時計を見たり、窓を見たり、時々宿題をやったりしながら、何も食べずに昼休みを終えている。

 僕と彼女はそれなりに話せる仲にはなったが、主に自分が無駄な意識を研ぎ澄ましているため、友達未満の域を脱していない。片思い、もしくは願いが叶えば、虚しい両思い。そういうことなのだろう。

 自分が何故こんなに惹かれているのか、考えたことがあった。今まで本当に一切の関係もなかったのだ。他の女友達には何ヶ月も話しているのに、数日しか話していない彼女の方に、僕は惹かれていた。幾ら何でも急すぎる。自分でも訳がわからなかった。

 さらに、出会い方が衝撃的だったわけでも、彼女の見た目に一目惚れしたわけでもない。そもそも、僕は未だに、彼女の顔をしっかりと見たことがないのだ。

 彼女への好意を自覚した今ですら、直視するタイミングなんてできず、写真などで見つめるのは気恥ずかしくてできない。もちろん顔と名前が一致する程度には分かっているが、顔単体で思い出せと言われても、二重か一重か分からないぐらいには朧げだ。

 しかし、そんな中でも、無意識に印象に残っている特徴があった。あざといとまで言えるほどに、弱々しさを見せつけてくる青白い肌だ。自分の気持ちについて考えるまで自覚がなかった。だけれど、いざ自覚すると、その色は正確に思い出せる。間違いなく、僕が彼女に惹かれた要素は肌の色だった。

 彼女にはお弁当が無かった。食べて欲しかった。そうすれば、彼女の肌の色が良くなるから。けれど僕には、彼女のためにお弁当を作って渡せるほど、時間も技術も関係もない。そしてもちろん、彼女に栄養を摂ってほしいなんて直接的すぎて伝えられない。行動力の有無などではなく、伝えても意味がないことが自明なのだ。

 ただ、もしかしたら、彼女の彼氏になれば、彼女はお弁当を食べてくれるかもしれない。そんな気持ちが、僕の恋心を育んだのだろう。

 まあ、とはいっても、僕がそれに気づいたところで、彼女の彼氏になれるかどうかには関係がない。自己満足にすらならない思慮が無駄か無駄じゃないかという、無駄な問いかけを自分にしながら、憂鬱を夏の日差しで照り焦がしていた。


「クラスリーダーになりたい人〜」


 しかしそんな僕にも、一つの幸運が訪れた。


「じゃあ、水上と山本さんで」


 10月の文化祭のクラスリーダーとして、僕と彼女が選ばれたのだ。



××××××



 面白いことに、この選出に恣意的な何かは含まれておらず、完全に偶然なのだ。この学校でのクラスリーダーは、費用の調整や場所選びなど結構面倒かつ、リーダーと言いつつもクラスを率いることは全面的な才がない限り難しい。クラスリーダーじゃなくてもクラスに貢献できるため、わざわざクラスリーダーを選ぶ人は少なかった。それでも僕と彼女だけしか手を挙げないというのは出来過ぎだと思うが、ここは神様に感謝しておこう。一応僕も彼女もそれなりに影響力が高い地位にいるため、萎縮した人もいるのかもしれないとだけ補足をしておく。

 もちろん、僕が一瞬でこんな内容を考えているはずもなく、その時は彼女と共有できる話題ができたことに、頭悪そうに舞い上がっていた。どんなイベントが2人を待っているかすら、妄想できていない。目先のことに喜んでいただけ。恋は盲目ということなのか、はたまた僕がただ馬鹿なだけか。とにかく、僕は彼女へ話しかけたかったのだ。

 使いものにならない頭で、必死に台詞を考える。僕の狼狽は悟られただろうか。僕の態度が困惑だと勘違いされていないだろうか。彼女の本心は分からないが、彼女は優しく僕に声をかけた。


「よろしくっ」


 彼女は普段通りの、何が理由でもない、人生を楽しんでいる人の笑顔を見せた。やや緊張が酷い状況だったとはいえ、初めて、彼女の顔をはっきりと見ることができた。そう、初めてだ。

 今までも、彼女の顔を見たかった。けれど、この恋心は分かりやすく見せたくない。だから、彼女を直視することも、横目に映すことすら、僕にはできなかった。

 客観的に見たら、もしかしたら既に露骨なのかもしれない。けれど、それを確信するまでは、徐々に徐々に、分かりづらく、不明瞭に行動する。そんな臆病、もしくは偏屈な理想。簡単に叶えられるはずもなかった。改めて、幸運だと実感する。

 僕は何を言うべきかこの短い間で考えることはできず、諦めて反射的に台詞を返した。


「よろしく」


 なにも面白くない台詞だ。挨拶に挨拶で返しただけ。社交辞令と何ら変わりのない。とはいえ、これ以上格好の良い台詞も思い浮かばないため、反省はしていない。なんというか、自分を責めるポイントを荒探ししても、即座に反論できてしまう。そんな状態だ。

 ......どうしようか。ここで終わると物足りない。もう少し話したい。が、何も台詞は思い浮かばない。何も考えず話してみるか。......いや、慎重に行こう。リスクとメリットを判断するための基準が必要だ。でも、結局台詞が思い浮かばないのならば、話をしないという選択しか取れないのだ。それを望んでいるわけではない。悩ましいところだ。

 今の気分は俄然最高潮であった。心臓は平静だし、理性も平常を保っているけれど、『なんとなく気分が良い』が続いている。初めての感覚なのに、身を任せられる。明確な理由がなくても、頼っていいと思える。疑い深い僕には珍しいことだった。

 決めた。この気持ちをもう少し味わいたい。ここで終わるのは勿体ない。馬や鹿みたいに、身体を本能に委ねてみるのも、たまには良い経験になるだろう。僕は彼女に、脳の引き出しから適当に拾った台詞で話しかけた。


「なんでクラスリーダーなんて選んだの? あんまり人気ないのに」


「君が言うんだ。うーん、大した理由はないよ? 強いて言うなら、文化祭が一番能力とか必要ないからかな。ほら、運動会とか合唱コンとかはやろうと思っても、指導できる気しないから」


「僕は去年もやったけど、クラスリーダーも相当能力必要だよ。計画性とか、資材申請の時にクラスのやっていること全部把握していないといけなかったりとか。めっちゃめんどいよ」


「君はクラスリーダーに恨みでもあるの?」


「うん、それはもう」


「なんで今年もやったの......」


「まあ、流れ的にそうかなぁって」


 ところどころ危なげだが、なんとか話せている。楽しい。本当に全部成り行きで、合理性も整合性も一切考えていないが、意外と問題はなさそうだ。このまま続けよう。


「楽しいじゃん、クラスリーダー。リーダーだよ? リーダー」


 リーダーだからどうしたというツッコミは内心に控えて、それよりも気になることがあった。「楽しいじゃん」。これは、彼女が以前にクラスリーダーを経験したことがあるような言い方だ。去年はクラスリーダーではなくて、二、三、四年前はクラスリーダー。そして今年もクラスリーダーに強い興味を持っている。そんなことありえるのか? ......流石に考えすぎだ。珍しいだけで普通にある。

 というか、こういう面倒臭い思慮深さは今は必要ない。今は脳を殺して心を楽にして話す時だ。考えすぎることのデメリットを洗い出す。メリットを捻り出す。そのために、頭を空にする......

 頭を空にするとは、意識してできるものではない。そんな当たり前のことで頭を埋めてしまった僕は、妥協して素直さを意識して、彼女に質問した。


「あれ、クラスリーダー、経験したことあるの? 去年は違ったよね?」


 無愛想な僕と、彼女が、真顔で見つめあう、不自然な間があった。その長いとも短いとも言えない妙な空白は、僕に『地雷』を踏んだと気づかせるにはピッタリの時間だ。

 空気の流れが変わった。


「......ち、中1と中2でね」


 声のトーンが中途半端に高かった。目が迷っていた。声も身体も、震えていて、青白かった。


 トラウマが心に刻まれている。そうはっきりと分かった。


「一昨年に何かあったの?」


「え?」


「そんな感じに聞こえた」


 彼女は呆気に取られたように口を半開きにする。それは戸惑いで、不信感で、焦燥。青白くなるその顔を、僕は初めて正面から見る。とても綺麗で、とても興味深かった。

 しかし、見惚れている時間はなかった。僕が彼女を正面から見れる時間は、永遠に来ないことに気づいた。自分の非常識としか言いようのない行動を思い返したのだ。

 言うなれば、地雷を踏み潰した。

 しかも、選択を強制されていたわけではない。自分から地雷が埋められている道を歩きにいったんだ。なぜ何も考えず歩いた? なぜ受け身を取ろうとしなかった? 脳を再び稼働させて、誰に対してでもない、手遅れな言い訳を考える。

 答えは分かりやすかった。一言で言うなら、恋心だ。彼女のことをもっと知りたいと、理性が本能を抑えられていなかった。人のトラウマを無配慮に聞いてはいけない。そんな当たり前のことすら、忘れていた。なるほど、たしかに馬鹿らしい。我を忘れるという経験は、初めてだった。

 おっと、失敗という結果を得たことに一喜一憂をしている場合ではない。彼女がこの数秒の間、何も話せずに固まっている。早くフォローをしないと。


「あぁ、ごめん。答えたくないよね」


 できるだけ柔らかく台詞を取り消した。無かったことにする。失礼と思われるのは、例え誰からであっても、まして彼女からは、御免だった。


「いや、大丈夫大丈夫。大したことじゃないから」


 非落胆を表す笑顔。それと同時に、僕を納得させるためか、自分を納得させるためか、保身の一言。そして、まだ怯えが隠しきれていない声。少し警戒されたっぽいのに、親しみが込められている。良い人だと思う。

 とはいえ、その優しさに甘えてはいけない。彼女や周囲からの視線を気にしてという意味でもそうだし、自己評価にも悪影響だ。考えて反省点を探し出してまた考えても、何も解決策を得られず、1人勝手に時間を浪費したと後悔している様子が目に浮かぶ。惜しいが、この話題は完全に打ち切るべきだ。会話を終わらせてでも。


「それなら良かった。これからよろしくね」


 彼女はニコりっと返して、もう気にしていないように、次の授業の準備を始めた。優しい人だ。

 想定通り、ここで会話は終わる。仕方ない。いや、むしろ、今日の内省は気持ちがよかった。新たな試みをして、失敗したとはいえ、失敗の理由を理解できて、運よく後処理も問題なく、さらに彼女の性格や経験について沢山の情報が手に入った。

 僕は同じく次の授業の準備を始める。心中は相変わらず喧しいが、雑音ではなく、まるで木々が風に揺れているような、聞き心地の良い音だ。



××××××



 クラスリーダー決めから三週間が経って、7月の初旬。クラスの出し物がお化け屋敷に決まり、クラスリーダーとしての活動が増えてきた。

 夏休みの間に予算案を出すから、それまでに使う資材を決めておかないといけない。けど、クラス全員で話し合えるのは終業式の二十日までだから、それまでにお化け屋敷の構造を考えるとなると、時間的に厳しい。

 “私”は椅子に座って、白紙の計画書と睨み合っていた。


「下手したらこれ、有志グループだけで殆どの内容を考えることになるかもね......」


 一応夏休みの間にも何人かは集まってくれるから、必要な資材が全く決まらなかったということはあり得ないのだけど、やっぱり全員で考えたい。後々喧嘩になるかもしれないし。


「まあ資材の予備はもらえるから、内容は大まかにで大丈夫だと思うよ」


 彼は水上くん。何考えているか分からないけど、嫌々だった割にはまじめに活動をしている。こうやって気遣いもできるし、良い人ではありそう。


「去年の資料見てみる? どんぐらい予備貰えたか載っていたはず」


「あ、ありがとう。よろしく」


 やっぱり中学と高校じゃ文化祭のスケールが大きく異なる。高校では初めて務めている私にとって、去年からクラスリーダーをしていた水上くんは本当に頼りになった。


「えーっと、資料資料...... ちょっと待ってね。どこやったっけ。そっちあったりしない? 山田の席とか」


「あ、校章書いてある表紙のやつ〜?」


「それそれー」


「と、届かない......」


「山田の席に放置しといてー!」


 1ヶ月前は殆ど目も合わせなかったのに、最近はお互い馴れ馴れしく頼み事できる程度に...... はたしてこれは良いことなのかな。


「あ、そうだ。クラスラインでお化け屋敷でどんな案があるか考えとくよう言っといてくれない?」


「ならノート作っとくよ」


「おっけー」


 えーっと、スマホを出して......と。水上くんは山田くんの席で資料の紙をトントンしているから問題ない。よし、開こう。


 パサっ。


 ......!?


 一秒の思考停止。そして気づいた、ただの紙の束が落ちる音だと。な、なんだ。どうやら資料を落としたみたい。私は椅子の下にある紙を拾って、水上くんに渡す。


「大丈夫? はい」


「ありがとう。ごめんごめん、紙の端揃えていたら落っことした。それで、グループで聞けた?」


「あっ、まだ。今やる」


 ふぅ、ビックリしたなぁ。危なっかしい。もっと慎重にならないと。今度こそ、水上くんは資料の紙を拾っているから安心。パスワード入力してと......


「はい、資料」


「うわぁ!」


「...........?」


「............」


「............ど、どうかした?」


「いや、えーっと............ 急に耳鳴りがして」


「そんな驚くほど!?」


 よ、よかった! 気づいていないみたい! 死ぬかと思った! 良いツッコミ! 本当に良いツッコミ! 安心感のある良いツッコミ! もう、もう、助かったー。

 仮に人の秘密をハプニングで知ってしまったら、自然体で居続けるのは難しいはず。取ってつけたような優しい目、ぎこちない笑顔でいる。もしくは冷静になって、感情の起伏を意図的に少なくし、ほぼ普段通りを演じることなら、できるかもしれない。

 けど、むしろ通常より大きめの声で、驚きの感情を叫ぶなんてことは...... しない...... しないよね? 私ならアレを見たら文字通り声を失う。けど、表情は混乱を表していて...... いや、違う、そうだよ、驚きを演じながらかつ混乱の表情を分かりやすく見せるというのは、矛盾だ。ということは......!


 本当に気づかれていない! やったー!


 ......ふぅ。でも誤魔化しがめちゃ下手だなぁ。気が動転していて適当なことしか言えなかった。でも、もう少し真実性がある嘘じゃないと、私が何かを隠しているっていうことに気づかれる。耳鳴りって言ったことは取り消せないし...... 背景設定を盛らないと。


「私、耳鳴りが昔から酷かったんだけどね。最近は殆ど発生していなかったんだ。だから、急に来てビックリしちゃって......」


「か、かわいそう。もう再発しないといいけど......」


 同情されている。偽りに同情されて、やや心地よい気分を感じている自分が憐れすぎる。でも信じてくれてよかった。


「そ、それより! お、送っておいたよ------」


 話題の転換を狙おうとしたけど、声が震えている。高まった心拍数を隠しきれていない。もし私の動揺が悟られたら? 耳鳴りの話が嘘だと気付き、私への不信感を持たれて、そして私が秘匿しているものを暴き出そうとするんだ。

 どうする、どうやって対応すればいい? 分からない、悟られたら詰み? 祈るしかできないの? 確実に隠しきる方法を、なんとか......

 私が安全策を考え始める前から、彼は返事の言葉を発していた。


「ありがと......?」


 間違いなく何らかの疑問を持たれている。水上くんの顔は見ていない。聴覚の神経に集中していたんだ。表情を見るのが怖いから。私は、ただ怯えて言葉を待つ弱い者。緊張で、恐怖で、抑えないといけないはずの心臓の鼓動が、ドクドクと大きくなっていく。


「あぁ、えっ、うん。見て見て! 資材の予備、それなりに貰えているよ!」


 不自然。普段とは違う。けど、話題が...... 変わった? ということは、追究されていない? でも、私の動揺には薄らとでも気づかれていたはず。気づいた上で追究していない? 追究の意思を持ってても、私に見せていないだけ?

 もしくは...... 私が無理に話題を変えようとしていることに気づいて…… その理由を、耳鳴りの心配をかけないようにするためと勘違いしたとか、かな......? そうなはず、うん。今はその的外れな気遣いをありがたく受け取ろう。


「本当、これなら大丈夫そう......!!」


 何も見ずに適当に言っていますごめんなさい。


「それ、見てていいよ」


「あ、ありがとう......」


「分かんないことあったら聞いて」


 水上くんはスマホを取り出し、黙々と操作を始めた。私とは違って、既に落ち着きを取り戻している。けど、私にも時間が貰えた。資料に全注意を割くことで、ネガティブな思考も忘れられていく。

 その後は、お互い何も無かったように、クラスリーダーとして普通の会話をして、そして帰った。

 スマホを見られそうになった恐怖を忘れたわけじゃない。かといって、普通を装っているわけでもない。頭が冷えた今の自分と、その時の怯える自分があまりにも違いすぎて、一致しないんだ。嬉しいことでもないし、悲しいことでもない。ないないないない、自分が分からないっていうこと。

 それはまるで......



××××××



 夏休みに入った。既にお化け屋敷の内容は大雑把に決め、構造はまだ考えていないが、これなら不満の声も出にくいと予想される。クラスラインでこまめに確認を取りながら、有志グループと一緒に設計図を描く。それが最近の日課だ。

 日差しが窓からカーテン越しに入ってくる。やや分厚めの制服の内側が、湿っているのを感じた。節電のためか、教室のクーラーは切られている。生徒も少ないし、仕方ないなとは思いつつも、恨めしい。冷却スプレー、氷水、日焼け止め、替えの制服のシャツと、どれだけ手を尽くしても、肌に纏わりつく不快感は取れることはない。


 友達にラーメン屋に誘われた。あまり一人では行かないが、断る理由にはならない。良い機会だと思って、気後れしつつも着いていったのだ。僕は運動部ではないが、男子高校生の平均近くは食べる。友達と同じように、大盛りを頼んだ。語彙力が下がることを許して欲しい、馬鹿みたいな量が出てきた。とてもじゃないが食べきれる気がしなかった。

 そして友達は...... 荒々しく齧り付いた! 周りを見る。厨房の炎によるものだけとは思えない、独特の重苦しい熱気。気づいた、今浮いているのは僕だ。小太りの店員が、昼のピーク時にも関わらず、豪快に声を張り上げながら、てぼと呼ばれる麺の湯切りをする器具を振り回す。その瞬間、ある種の義務的なものを感じてしまった。


 その後何が起きたかは想像に任せよう。その友達と違い午後も学校に居ないといけない僕は、手洗いに駆け込んでいた。胃を刺激しすぎない限界を見定めているため、下手したら普段歩くよりも遅いかもしれない。

 階段を使うのは不可能。三年生以外が使うのは禁じられているが、一階の手洗いを借りよう。受験勉強を考慮して三年生は文化祭で出し物はしないし、部活動で残る三年生も、基本は外のもしくは体育館のを使うため、一階には九割方誰もいない。

 僕は一目散に個室に入り、蓋を開けた。


((((((閲覧不可))))))


「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 息が荒い。酸性の液体が、呼吸を喉で感じる邪魔をする。その液体は粘度が強いようで、意外と弱い。不快感よりむしろ喪失感が嫌になり、唾を飲み込む。口は開き続けていた。

 頭の中が真っ黒になる。思考が様々な向き、様々な大きさ、様々な字体で羅列されていて、多すぎて絡み合って、だから真っ黒だ。その一つ一つが本能から生み出された台詞であり、詭弁や婉曲の一切が除かれている。

 単体に着目して読み取ることは可能だった。なになに、喉の奥が熱い...... 苦しい...... 気持ちいい......? こんなにも自分の心が直球に表現されているのに、意味が分からなかった。表裏一体とは違う、二面性とは違う、この台詞共は間違いなく孤立しているんだ。

 まるで自分という存在の歪さを見せつけられているみたいで、考えたくなくなった。その瞬間、空気を読まずに抑えきれない衝動が、肺から押し出される強い圧に混じって、結果、混沌に燃え上がる食道。意識が肉体に持っていかれる。


((((((閲覧不可))))))


 二酸化炭素の音がする。速いとも遅いとも言えない一定のペースで、不調和音が奏られる。普段は声を出すことのない個室だからか、震え上がるほどの違和感を覚えた。

 視界はぼやけていた。味覚は無意識に否定されていた。嗅覚は意図的に封じられていた。触覚は不自然を捉えられなかった。許せないことに、一見無関係の聴覚だけが、敏感に働いていたのだ。

 そして、外部の刺激よりさらにしんどいのが、内部の負荷。体力が奪われて、暑さが無視できないほどにまで強調された。空調が弱く、熱がこもっている。抜け出さないと死ぬ、そう思ってしまうまでに。しかし、その危機感を持っていてもなお、身体は動かなかった。

 全身からじっとりと汗が滲み出し、服と背中が密着する。既に濡れきっている。もう吸い取ってはくれない。けれど、これもまた不快感はなかった。気にならないわけではない。落ち着かない、といった表現の方が正しかった。矛盾しているように思えるが、湿り気は心地よく、そして湿り気に付随する痒さが心を煽る。挑発する。

 馬鹿にして。


((((((閲覧不可))))))


 ......その通りだ。もう限界だっていうのに。三回目は吐かないこともできたはずだ。身体は必死に危険信号を送っていたのに、理性が心を制御できなかった。でも流石に、出ないと...... 暑すぎる。

 力なく腕を上げ、ロックを外し、ドアを開ける。作られたスペースを使い、仰向けに倒れた。相対的に涼しい空気が胴体を伝う。急に寒いと感じるのだから、既に異常が発生しているに違いない。今のは面白いぐらい自嘲的だなと自覚したことに苦笑いした。汗が冷やされて風邪をひく現象だってそう珍しい現象ではないのに。

 やや意識して呼吸を繰り返す。この体勢だと、唾を文字通り飲むことにも一苦労だ。喉に残った液体を戻す。舌に触れていないため当たり前だが、味は感じない。嘘でも誇張でもなく、本当に気持ち悪さはなかった。

 悲しくもない、悔しくもない、楽しく自分を馬鹿にできていた。


 本当はトイレより涼しい場所なんていくらでもあるが、僕は寝転がりながら三十分以上涼んでいた。午後の仕事に戻るのは、疲れたから後にした。勝手だが仕方ないだろう。それに、今戻ったところでみんなを無駄に心配させるのがオチである。

 そろそろ身体も冷えて固まりそうになっている。気力と体力は無いが、動かないといけなさそうだ。僕は寝返りをうつ。うつ伏せになったことで、視線が下に向き、見えるものがあった。タイルの隙間の黒ずみ。埃やカビだ。汚い、率直にそんな感想が出てきた。

 既に何十分も寝転がっている。しかも湿った背を向けてだ。軽い潔癖を抱えている僕には、なかなかに嫌な事実だった。けど立ち上がるキッカケにはなった、僕はようやく手洗いを出る。廊下はさらに涼しいはずなのに、冷えた心地はしなかった。

 教室に行くための階段ではなく、近くの水道に向かう。口の中にまだまとわりつく感覚が残っているからだ。別にそれが嫌というわけではないが、洗い流さないと色々と問題だろう。友達に臭いを指摘されるというエグい想像が、容易に現実になり得る。絶対に御免だ。ちなみに、手洗いの水道を使わない理由は、単純にうがいがしづらいのと、ついでに手洗いと水道の距離が近いからだ。

 数歩の距離をゆっくりと詰めていく。鏡の中の自分と衝突しそうになって、お互い力なく止まった。顔色が酷い。血液の動きが感じられない。表情にも、疲れが分かりやすく表れている。普段との違いが見えて、おもしろかった。けど、別に自分の顔が好きというわけではない。さっさとうがいをしよう。

 口内に残るものを排出する。それに視線を向けると...... 見なければよかったと後悔した。吐いた直後なのに吐き気を催す。洒落にならないからやめてほしい。それのせいか、サッパリしたはずの口内の表面と歯茎に、初めての気持ち悪さが浮かぶ。

 もう一度うがいをして、男子なら疑念の目は向けられど許されるであろう、シャツを脱いだ。ハンカチで汗を拭った後、脱いだシャツを流し台に入れ置き、蛇口をひねり、上から水を被していく。これをどこかに干しておいて、とりあえずの間は半裸のまま過ごすつもりだ。ハンカチを水に濡らし、絞ったら再び身体を拭く。暑かったから気持ちいい。

 クーラーの冷たい風を浴びていると、手洗いから誰かの足音が聞こえた。先述の通り、今の時期は誰もこの階のは使わないはずだ。振り返ると、女子トイレの前でキョロキョロと出る機会を窺っている。僕の姿も映っているはずだ。僕は前を向いてあげた。

 明らかに僕が言っていい台詞ではないが、ルールを守らない危険な人だ。女子となると単なる横着の線も薄い。幸い少し離れているし、このまま関わらないでおこう。


「......え、なんで水上くんが?」


 違った。彼女だったか。きっと上の階に行くのが面倒で、横着したんだろう。女子でもそういう時はあるさ。

 早すぎる手のひら返しは置いといても、事実横着した以外の理由は考えづらい。反抗期のような悪ふざけをするほど子供ではなく、むしろ女子の中ではどちらかといえば落ち着いている方。中で誰かを虐めていた、といった驚愕の展開も流石に有り得ないだろう、だとしたら僕を見てもっと焦っているはずだ。もちろん虐められているはずもない、彼女の地位は高い方だ。

 あ、実は...... 淫らな思考が混じったが、よく考えたらこの暑い中そんな余裕はない。また、生理関係なら上の階の個室でも可能だ。その途中どういう心境かは僕には知る由もないが、校則を犯してまで、夏休みだけでも他人が居ない場所を使いたいと思っているとは想像しづらい。逆に思っていたら可愛いな。......段々と思考が妄想へと変わってきている。彼女と向き合いながら何をしているんだ僕は。

 えぇ、一旦話題を変えよう。先程の彼女の台詞には、荒く掠れた息が混じっていた。暑さが原因か。


「こっちクーラー効いているよ」


「あ、ありがとう......」


 彼女はゆっくりと歩いてくる。今にも倒れそうだ。近づくと、見えてくるものがあった。顔色が青い。青を超えて青白いと言った方が正しいかもしれない。表情を見て、無理して笑っていると、一瞬で理解できた。彼女との距離が自然な会話ができる境目で止まる。距離感が近いと言いたいわけではないが、普段よりも明らかに遠いことを、無視できなかった。まるで鷹が爪を出してしまい、僕を自分を傷つけないように距離を置いているように感じた。

 青さに惹かれて目が奪われる。彼女の背を壁にもたれる挙動、その際に力なく揺れる指先から、どこか呆けた表情まで、僕は見惚れていた。でも何故だろう、この微細な動き、表情、そして色には、既視感があった。......そうだ、さっき鏡に映った僕と同じだ。

 じゃあ、その理由も僕と同じなのか? そうだとすれば、彼女がここに居るのもしっくりくる。とはいえ、同じ時間に吐いているなんて偶然があるのか。熱中症や貧血など、顔色が青い理由なんて幾らでも考えられる。なのに、僕と同じであることを願ってしまう。シンパシーを感じたいわけではない。そんなロマンティックなものではない。

 確かめたい。知りたい。彼女に惹かれて止まらない。

 けど...... 流石に女子相手に手洗いを使っていた理由を聞くのはデリカシーが無さすぎるな。さて、どうしよう。使用禁止であることを指摘しても、言い訳や正当性の主張が返ってくるならまだ良いが、最悪何の情報も得られずただ関係が悪くなるだけで終わる。なら、単刀直入に吐いていたか否かを聞いてみるのは...... 厳しいか。外れていたら気分の悪い言いがかりで、合っていたらそれはそれで気持ち悪い。

 顔色が悪いことについて指摘してみるのはどうか。僕は再び彼女の顔を見た。少し離れていても、ハッキリと顔の青さが分かる。客観的に見ても明らかだ。なら、聞いて損は無いな。心配を装った風に聞けば、的外れでも得がある。決めた、これで行こう。


「顔色めっちゃ悪いけど、大丈夫?」


「え、あぁ、暑くてさ。本当死んじゃいそう......」


 うーん......? 嘘っぽい、けど断定もできない。彼女は分かりやすい方だから、嘘っぽいと感じたら嘘だと思って良い気がする。いや、でもなぁ。判定が際どいところ。考えても無意味だし、とりあえず無難な返答をしとこう。


「実際死にかけているから、気をつけてね。熱中症で倒れられたら色々困るから」


「多分大丈夫だと思う...... って説得力ないかこの状態じゃ」


「うん」


 彼女の表情が柔らかくなった。けど、彼女の言葉の真意はまだ分からない。もう少し会話を続けないとだ。あっさりと諦められる内容じゃない。ここで話を打ち切ったら、絶対に後悔の念に苛まれる。もちろん、メリットとデメリットを考えた上で諦める必要はないと考えている。けど、理屈だけの問題じゃない。本能がそう訴えかけている。曖昧なまま終わらせたくない、もう嫌だと。

 ......しかし、僕の会話の組み立て能力は低い。考えると、会話のテンポが悪くなってしまうタイプだ。ただ続けるだけなら脳死でいいが、今回は会話の主導権を握った上で、話題を誘導する必要がある。

 本当に暑いだけであの顔色になるのか? まだやっぱり心配だと話しかけることは、多少積極的に見えるけど、できなくはない。けど、それを繰り返したところで、答えは変わらないのではないか? 誘導するにはどうする? いやでも、そもそも彼女の答えが本当の可能性だって十分考えられる。そういえば、これ以上午後の仕事に顔を出さないで大丈夫かな。追求されたら二人きりで居たことが露見するかもしれない。いや、今はそれどころじゃない。そんなもんは後で幾らでも言い訳を考えればいい。あぁやばい、無駄に時間をかけすぎた。食い気味に話すことができなくなった。何やっているんだ。さっさと誘導の方法を考えるんだ。

 今から自然な流れに持っていくことは可能なのか? さっきの無難な返事がダメだったのか。でも考えた上の無難な返事なわけで、それを責めるのは。いや違う、考えていない。あれ、考えた結果これ以上考える必要がないと言ったわけだから? あぁ、過去のことを今更後悔してもしなくても変わらない! 何を考えるべきかすら分からない、だめだだめだだめだ。

 考える。考えて、考えるが、思いつかない。ならもっと考えろ。いや、考えても無理だって。でも考えなくてもどうしようもない? ならどうすればいい。考えるがゲシュタルト崩壊してきて、考えることを放棄したくなる。


 昔からそうだ。瞬発的に考えをまとめるのが、苦手だった。反射的に、感覚的に会話を進めていた。もしかしたらそれが普通なのかもしれないが、僕はそれが気持ち悪かった。特に、その会話を思い返した時に、不満が残る場合。考える暇は無かったと理解していても、頭が足りない、愚かだと自分を責めたくなる。反省しようとしても、反省する要素が見つからず、かといって是になるはずもなく、ただ喉の奥が渇いていく。


 頭の中が葛藤で埋め尽くされる。必死で回した脳みそは、完全に空回りだ。何も成果は出ないまま、時間が無くなっていく。汗が出てくる。喉の渇きを身体が予感している。あれ、今どっちが話しているんだっけ......?

 彼女だ。


「それより、なんで脱いでいるの?」


 緊張が解ける。新しい話題を出したのは、彼女だった。というか、話す順番的に次は彼女なのは当たり前だろう。さっきまでの頑張りは何だったんだ。でも、何も良くはないのだが、良かったと安堵している自分がいる。これこそ愚かだ。

 彼女の台詞に移ろう。まずこの質問の意図だけど、単純に気になっただけだろう。答えは手洗いの汚いタイルに寝そべっていたからだが、正直に言うのはややキツイ。偽るなら汗をかいたから、が一番自然だろうか。暑いから脱いだというのは若干僕のキャラと合っていない気もするが、それぐらいは誤魔化せる。


「いや、外暑くてさー。ほんとう頭おかしい暑さしている」


「へぇ、まあ汗かくもんね。私もさっき酷くてさ、ボディシート使って替えの制服に着替えたんだけど、それでもまだシャワー浴びたいぐらい」


「僕も替えの制服持ってこればよかったなぁ」


「二枚じゃあんまり変わんないから、男子はそうやって脱いでいればいいと思うけどね」


 何気ない会話に見えて、読み取れる情報は結構ある。例えば、さっき言った僕のキャラと合っていないことについて、彼女は『へぇ』『まあ』と若干の反応を見せていること。誤魔化せてはいるが、勘が鋭い。気をつけないとだ。他にも清潔感を大事にしていたり、その割には男子の上裸は気にしなかったり。

 そして一番は、さきほど使用禁止のはずの手洗いに居た理由。ボディシートで体を拭うため及び着替えるためだとしたら、納得がいく。僕は違うが、狭く便器がある場所で服を脱ぎ着するのに抵抗感を覚える人はいるかもしれない。

 もしそれだけが理由ではないなら、『二枚じゃあんまり変わらない』のに持ってくるというのも...... こじつけが過ぎるか。いい加減無駄に根拠を想像するのは止めよう。違うものは違う。これ以上バイアスに呑まれにいっても、彼女という存在を理不尽に汚すだけだ。

 ......ほんのりと、あるいは無意識下で強く期待していた。今もやっぱり、期待したい。

 何十秒か、特に話すこともなく、お互いに身体を休めていた。その間、僕だけが勝手に現実を知って、しんみりとしている。僕は葛藤が嫌いだ。思考を断ち切るために、彼女に再び話しかける。


「そろそろ午後の仕事に戻る?」


「そうだね、だいぶ涼んだし、戻ろっか」


 大した成果もないまま、戻る。どこからダメだったんだろうか。会話を誘導できたら、上手くいっていたのだろうか。いや、最初から無理だった。今回も、僕を否定する要素は見つからない。階段を登ると、足が重い。

 目的の階についた。教室へ向かおうとすると、彼女は反対方向へと歩き出した。足並みを揃えて歩いていたから、一層不思議だ。


「どうかした?」


「うがいするだけ、先行っていていいよ〜」


「っ......!」


 大きく目を見開き、言葉が返せなくなる。だってこれは、僕の期待が真実である可能性を示しているのだから。葛藤のバランスが逆転する。信じてもいいのではないか。間違っていると決めつける必要はないのではないか。

 返さないといけないと思い出てきた台詞は......



「吐いた......?」




××××××



 クラスリーダー決めから一週間半が経って、6月の下旬。これからクラスの出し物などを決めていく。僕は焦っていた。クラスリーダーの活動が本格的に始まる前に、策を練っておきたいのだ。そう、一旦退きはしたものの、彼女の一昨年の話は未だに気になっていた。それをどうやって知るかの策だ。

 僕は今日まで、彼女と同じ中学だった人や、去年彼女と同じクラスの人を調べていた。調べるとは言っても、繊細な問題のため、好奇心と良心を安易に天秤にかけられず、間接的に聞いてみるだけなのだけれど。遠回しすぎて、求めている答えが返ってきたことは一度もない。

 また、変に恋だの愛だの囃し立てられるのも嫌なので、自分から彼女の話題は口に出さず、タイミングが合えば、あわよくば、と状況任せに受動的に動いているため、進展は全然おぼつかない。

 まあ、もともと熱を入れていたわけではないため、別にいいと言えば別にいいのだけれど、微妙に納得がいかない。喉の奥が乾くような、食道が疼くような、不愉快でもどかしい感覚だ。

 この静かな衝動を抑えるには、方針を変えないといけない。本人から自発的に言ってくれるよう仕向けるか、もしくは人を頼らず物的証拠を探すか。どちらも具体的なプランは思い浮かばないが...... どっちにしろ、物理的に彼女に近い情報を集めるのは確実に必要そうだ。彼女の後を追ってみる、とかか。

 ハイリスクなのは言うまでもないが、リターンはどの程度ある? 彼女をつけることで手に入る情報。彼女の友達、友達の前での振る舞い、授業中の態度や下校時刻などか。......生温いな。もっと背徳的な、彼女が誰にも言えないような禁断の情報を独占したい。

 スマホを見るのは、どうだろうか。

 言わずもがな、スマホには個人情報が詰まっている。住所や電話番号や銀行のパスワードといった犯罪的なものだけではない。アルバムやLINE、閲覧履歴や購入履歴等は、使用者の趣味を生々しく具体的に教えてくれる。

 普通それらは友達、ひいては親にすらも見せないため、自分のありのままを、性悪説でいうならば偽っている弱い存在を、存分に満足させるものだって入っている。つまり、使用者の裏表を映しているということだ。

 彼女の裏...... 直接一昨年の件が分かるかもしれない。分からなくても、僕の知的好奇心が満たされる。上手に行動すれば、損も生まれない。もちろん僕も、そして彼女にも。これ以上ない方法じゃないか!


 目的は決定した。次は手段を考えよう。スマホを見るという結果から逆算して考えていった時に、一番最初に関門になりそうなのは...... 画面ロックの解除だ。

 4桁のパスワードがオーソドックスだが、6桁だったり指でなぞる方法だったりと、種類は多々ある。彼女が使っている画面ロックの解除の種類を知るには、好機を捉えて彼女のスマホに触れてみればいい。誰かに見られないようにと考えるとやや面倒だが、スマホを隠す立ち位置を維持して、振り返るタイミングでカンマ何秒か見るだけなら、そこまで難しいことではないだろう。

 問題はその後だ。パスワードをどう知る? もちろん、隙を見ては入力してトライアンドエラーを繰り返すなんていう、途方もない作業はしたくない。彼女の指の動きを覚える......というのも、遠くから見ると動きが読み取りづらいし、近くから見ると彼女に犯罪的行為が露呈してしまうリスクが高い。......いや、後ろから見ることは可能か?

 もし仮に、彼女と実質的に二人きりの時間を作れれば。つまり、僕と彼女がクラスリーダーとして自然に近くにいて、その光景に誰も興味を持っていない状況であれば、彼女がパスワードを入力している様子を後ろから直接見ることは可能な気がする。彼女に気づかれても、横から覗き込むよりは言い訳がしやすい。何も知らないフリをすれば、

「クラスリーダーとして話しかけてきただけだよね」

と納得してもらえるだろう。純真な彼女が相手なら、尚更想像は容易い。

 ただ、問題点を挙げるとすれば、そのような状況を作った上で、偶然僕が山本さんの後ろにいて、かつ彼女がスマホを開くというのは流石に出来過ぎか? うーむ、可能な限り無理のない範囲に収めるのなら......

①彼女が座っている状態で

②僕は掃除しながら彼女と話している

③会話の途中で彼女に調べ物を指示して

④僕は彼女の後ろにあるゴミを拾ったように振る舞い

⑤そのまま、調べ物の結果を聞くために、後ろから話しかける

といった感じだろうか。うん、我ながら良い出来だな。これなら違和感は持たれなさそうだ。

 あ、でもこれだと彼女も掃除を手伝うとか言い出すかもしれない。無くした消しゴム...... ばら撒いてしまったプリント...... 彼女のお人好しが発動してしまいそうなシチュエーションしか思い浮かばないな。疲れてきた。一旦細かいプランは置いといて、スマホのロックを解除した後のことを考えよう。


 ........................

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