3)きっと優しい未来
ローズの上から、すすり泣くようなロバートの息遣いが聞こえた。見上げようにも、ロバートの腕が邪魔で、顔が見えない。目を落とすと、ロバートの手が強く握られているのが見えた。
今まで、こんなことは、一度もなかったはずだ。
ローズは、ロバートとの結婚など想像したこともなかった。ロバートはいつか、由緒正しいどこかの女性と結婚すると思っていた。ロバートに優しくしてもらえる時間は、いつか終わってしまうと思っていた。
「お嫁さんは」
ローズは恐る恐る聞いてみた。
「断られてしまいました。たった今」
溜息とともにロバートの声がした。この場にはロバートとローズしかいない。ローズは一生懸命考えた。いつもの朝と同じで、今、この部屋には、ロバートとローズの二人がいるだけだ。
「嫌って言ってないわ」
途端に見下ろしてきたロバートと目があった。
「ローズ、だって、あなた、さんざん」
「嫌って言ってない」
ロバートと結婚する、結婚できる未来があるなど、思ったことがなかっただけだ。優しいロバートが、ずっとローズの優しいロバートでいてくれる未来があるなど、想像したこともなかっただけだ。
「ロバートは、いつかお嫁さんもらうから、そしたら、今みたいに一緒にいてくれなくなって、だから、せめて、ロバートのお嫁さんと仲良しになれたら、ちょっとは一緒にいてくれるかなって、思ってたの」
どんな人がロバートと結婚するのかわからない。ローズが、ロバートにちょっと優しくしてもらっても、怒らないくらい優しい人がいいなと思っていた。
「ロバートはちゃんとした家の人だし、ずっと大人だし、だから、ちゃんと決まった人がいるのかなって、お父さんがいるなら、お父さんが決めるのかなって、思ってたの」
孤児で子供のローズとは、本来住む世界が違う人だ。イサカの町の件がなければ、絶対に出会わなかった人なのだ。ローズの面倒を見るようにと、アレキサンダーの命令で、大事にしてくれていると思っていた。
「一緒にいてくれなくなったら、髪の毛も、ちゃんと一人で出来るようにならないといけないなって、でも、出来ないままなら、やってくれるかなって。やってくれなかったら、一人でできるくらい、髪の毛、切らないといけないかなって。でも、切って売るっていって怒ってくれなかったら寂しいし、せっかく綺麗って言ってくれるのに、切るのは悲しいし」
ロバートと過ごす朝の時間は好きだった。いつか終わってしまう時間だと思っていたから、大好きだけど悲しい時間だった。ローズの髪の毛を梳いてくれている手はいつか、ローズの知らないロバートの妻の髪の毛を梳くと思っていた。
突然、ロバートが床に跪いた。ローズが、緑と榛色の宝石のような瞳を見下ろすのは、これで三回目だ。
「ローズ。待ちます。もう少し、あなたが大きくなるまで。十六になったら、私と結婚してください」
ロバートは、ローズの指にそっと口づけてくれた。
「私は、指輪もなにも用意できません。使用人の私には財産などない。でも、私はあなたと家族になりたい」
ローズは嬉しかった。ロバートと結婚したら、優しいロバートとずっと一緒にいられるのだ。
「ずっと先なのに、ロバートは、いいの」
「待ちますよ。無論、今すぐにでも結婚してしまいたいくらいです。あなたを大切に思っておられる方々からお許しがいただけないでしょうから。だから、今は婚約してください」
「婚約」
「将来結婚するという約束です」
ロバートの言葉は嬉しい。でも、ローズのせいでロバートに迷惑をかけてしまうかもしれない。ロバートは自分には財産はないと言ったが、ローズには財産どころか親も何もない。それどころか、いないはずの親が、重罪人であったりするかもしれない危険性があるだけだ。
「私は孤児よ。両親のことなんてわからないし、罪を犯した人だったり、借金とかあったりしたら、そんな人が、親だったらどうするの」
優しいロバートに迷惑をかけてしまうかもしれないのだ。
「関係ありません。親は親、ローズ、あなたはあなたです。確かに、生まれてすぐのあなたを育てたのでしょう。でも、孤児院の前にあなたを置いたのはあなたの親です。それ以降の人生はあなたのものです。十六になれば大人です。親は関係ありません。それに今、あなたの後見人はアレキサンダー様です」
ロバートは、ローズの心配も関係ないと言ってくれた。嬉しかった。
「ローズ、十六歳になったら、大人です。大人になったら、私と結婚してください。その約束として、今、私と婚約をしてください」
優しいロバートがずっと一緒にいてくれる。
「ロバートの、お嫁さん」
いつか現れるその人を、羨ましく思っていた。そんな立場に自分がなれると思うと、本当に嬉しかった。
「あなたが、良いと言ってくれるなら」
「はい」
抱きついたら、ロバートがいつもどおり抱きしめてくれた。とても嬉しい。優しいロバートが、これから先もずっと、ローズと一緒にいてくれるのだ。ふと耳元でロバートが笑った。
「どうしたの、ロバート」
「いえ、あなたに断られたと思い込んだ自分が、滑稽だっただけです」
いつもどおり、強く抱きしめてくれた後、ロバートはローズを、鏡台の前に座らせてくれた。
「髪を整えないと。先ほど、崩してしまいましたから」
ローズの髪をいつものとおり、梳かしてくれる。今日も明日も明後日も、ずっとロバートと一緒にいられるのだ。
「ロバート、私がおばあさんになって、白髪になっても、梳いてくれる?」
「えぇ、もちろん」
「ずっとよ、約束よ」
「えぇ、約束です」
鏡越しに、榛色と緑色の瞳と目があった。
「ローズ」
名前を呼ばれて振り返ると、ローズの唇に、もう一度ロバートの唇が触れた。
ロバートがイサカの町から戻ってきたとき、軽く頬をかすった口づけとも、ほんの少し前、ローズの口を塞ぐためのようだった口づけとも違う、優しい優しい口づけだった。
優しいロバートが、ずっとローズの優しいロバートでいてくれるのだ。嬉しかった。
孤児院という閉ざされた空間で育ったローズは、"お子様"です。
お子様であるローズなりに、一生懸命考えていました。
同じ言葉で、それなりに意味が通じていても。
お互いに、相手の言いたいことを本当に理解し合うことは、難しいと思います。
第三章11)で感想くださった方へ
「通じた?」のでしょうか…