短い朝
「アイツ、今夜はもう来ないんだろ?」
すずは、うつむきがちに頷いた。
「なんだよ!追い出されたぐらいで!」
ウサギは噴き出すように笑って、すずの腕を引っ張った。
「早く来いよ」
腹の上で丸まり鼻ちょうちんを膨らましながら眠るウサギにすぐに気が付いた。
戸の外では、鳥のさえずりが聞こえている。
――朝か。
すずは、オオナムヂがいないので寝心地の良い彼の敷布団代わりの重ね畳を借りていた。
ウサギは昨夜と同じように正真正銘のウサギのまんま眠っている。
耳はちょうどすずの鼻にあたっていて、寝息にあわせて前後するようにくすぐった。
ウサギの寝息は、本当に静かだった。
安心したように眠る可愛い鼻先をちょんちょんと触りたい。
しかし、何故だか右手が動かない。
左手で触ることも可能だったが、それよりも右手が動かないワケを知るほうが重要だ。
右に首を傾ける。
ちょうど目の前にウサギ宜しく安らかに眠る、美男子。
妻八神姫と床に入っていたはずのオオナムヂが、すずの右手を握りしめて眠っていたのだった。
「…………」
こちらに向かって眠りこける彼の顔にイラ立ちを覚えるすず。
しばらく睨み続けるが、オオナムヂは起きない。
「…………」
すずは悩んだ。左手は空いている。
ウサギを愛でる以上に、自分の為にやれることがあるかもしれない。
しかし残念なことに、オオナムヂが八十神に殴られ、鼻血を出したときのあの有様を思い出し、さすがにかわいそうだと、悩んだ選択肢を捨てたのだった。
しばらく呆れ顔でオオナムヂを見据えたすずだったが、安らかな寝息を立て続ける彼に降参し、ウサギを撫でながら目をつぶった。
気づいた時には、すずは幾重に重ねられた畳の上に組み敷かれていた。
両手首は、耳の側に固定され、赤く火照ったすずは視線だけを必死に逸らし降りかかる熱い眼差しをかわそうとしている。
「しょーがねーから、オレが喜ばせてやるって」
そう言って、オオナムヂの顔がすずに近づく。
とっさに目をつぶるすず。
彼の唇がすずの首元に近づくと同時に、すずの鼻先を何やらモフモフとしたものがくすぐってくる。
「人間はこれが好きなんだろ?好きなだけ触らせてやるよ」
え?なにこの展開?と、鼻をくすぐるオオナムヂの産毛の様なふわっふわな髪に違和感を抱き、
――目を開く。
夢だ。
ガバっと上体を起こす。
「いたっ!」
「ヴっ!」
何かにぶつかり、ジンジンと痛むおでこを抑える。
痛みに耐えながら薄目を開けると、同じようにおでこを抑えるオオナムヂがすずの体をまたいでいる。
「ちょ!?は!?」
辺りを見回すと、ウサギは畳の外に置かれた状態でまだ鼻ちょうちんを膨らましている。
「いきなり起き上がらないでよ」
痛そうに顔をあげるオオナムヂ。
「八神姫は!?」
「まだ寝てると思うけど」
そして、小さく欠伸をすると、すずの上から退いて、畳の横に胡坐をかいた。
「そうじゃないでしょ!?なんでここにいるのか聞いてるの!!」
すずが、体を起こしてすごむ。
それ以上に、オオナムヂが自分の上にいたことも気になるが、それについては触れずに記憶から消し去ってしまおうと思うすず。
「なんでって……、私の褥なんだけれど」
オオナムヂはきょとんとしている。
「すみませんね」
すずは、はぁと大きくため息をつく。
冗談だよ。と、軽快に笑うオオナムヂ。
しばらく笑ったのちに少し俯き、何か考え事しているようだった。
寝起きでボケっとしていたすずが呆然と眺めていると、オオナムヂが顔をふいっとあげる。
「……なんで入ってこなかったの?」
「はあ?」
「昨日。目が合ったじゃないか」
「はぁぁ!?」
「楽しみにしてたのに」
「…………」
この人は、私をバカにしているのだろうかとすずは思った。
もはや、相手にするもの惜しいと思ったすずは、黙ってオオナムヂを睨みつける。
「あ~あ。また怒ってる」
オオナムヂがすずの頬に触れようとしてきたので、すずは全力で払いのけ、そのまま立ち上がり、出口へと向かった。
「怒らないで欲しいよ」
オオナムヂは胡坐のまま、すずの背中に言葉を贈るがすずはそのまま弾き返した。
本気で言っているのか冗談なのか、そんな事を考えながら引き戸に手をかけたところで、勢いよく床を蹴る音が聴こえてくる。
それも複数。
ドタドタドタとだんだんと大きくなる音に、すずはすぐに踵を返し、素早い動きでウサギを連れて壁際に正座した。
抱いた時に「うわっ!」とウサギが目を覚ます。
「何してるのさ」体を捻って壁際に振り返るオオナムヂが吹きそうになるのを我慢して言った。
「なにって……!身分相応の所作をしているまでです!!」
「ああ、そうなんだ」
「なんだよ、いきなり。気持ちよく寝てたってのに」ウサギが不機嫌そうにそう言うと、乱暴に戸が開かれる。
「大変だ!オオナムヂ!!」
大きな声と共にずかずかと雅な男たちが部屋に入ってくる。
「どうしたんですか?そんなに慌てて」オオナムヂは、そちらを向くとにこりと笑った。
すずは、乱暴に部屋に入る男たちの顔を一人一人眺める。
入ってきたのはオオナムヂのたくさんの兄、八十神たちだ。
そして、オオナムヂを殴った兄がいない事を確認してホッとする。
兄たちは汗をかきながらオオナムヂの前にドカドカと腰を降ろしていく。
ざっと20人はいるだろう。
少し息をついた後に、一人の兄がワケを話し出す。
「北の山に大イノシシがでた」
兄は前かがみになり、目を見開いて話し出す。
その大袈裟な表情が、事の重大さを強調する。
「大イノシシですか?」オオナムヂが首を傾げた。
「ああ!次々と木をなぎ倒して……、河の岩も転がして回っているらしい!」
「それは大変だぁ」
「あの山の川は、中つ国に流れてる!放っておいたら、大雨の時に氾濫しかねない!」
「そうかもしれませんね」
「今、他の兄さんたちが大イノシシを追いまわしてるが、全く歯が立たないんだ……」
大袈裟に落胆する兄は、少し顔をあげた後、チラリとこちらを見た。
「なっ、なんだよ!」
すずに抱かれているからか、ウサギが生意気な態度で応じた。
「獣と心を通わせることができるお前にしかできない頼みだ」
兄がそう言うと、後ろに座っている数名の八十神が、ウサギの態度についてなのか、従者がウサギ一匹であるオオナムヂをバカにしているのか、口を覆って笑いを堪えているのが見えた。
ウサギから視線をオオナムヂに移した兄は、手のひらを床に密着させて、真剣な表情でオオナムヂに要件を訴えた。
「俺たちがそのイノシシを追い詰めるから、お前が待ち伏せして、暴れる理由を聞いてやってくれないか」
「私がですか……」
顎に手を当て、しばらく考えた後、「私にも口を開いてくれるかは分かりませんが」とオオナムヂが頼みごとを引き受けたのだった。