第10話 私は君を描きたい 12
「とりあえず今日は下準備ってことで! 今日、観覧車に乗ったら絶対行きたくなるから!」
そう力強い調子で告げて、牧野は屋上へと飛びだしていく。
受付でひとり六〇〇円ずつ支払って、列の最後尾へと並ぶ。
夕食時の手前という半端な時間のせいか、列はさほど長くない。
列はあっという間に消化されて、私たちがゴンドラに乗りこむ番になった。テンションがあがりすぎた牧野は、ゴンドラに文字通り『跳び乗って』係員に怒られていた。それを横目に、私は苦笑しながら彼女の対面に座った。ドアが閉められ、ロックがかけられる。観覧車なんて子ども向けのアトラクションだと思っていたけど、そういう仰々しい安全装置を見ていると、これからそれなりの高所にのぼっていくのだという事実を思いだす。そのせいか、ゆっくりとした調子でのぼっていくゴンドラの揺れが大きく感じて、ほんの少し心細い気持ちになる。
対面の牧野の顔を見ていたらそんな不安も一瞬で霧散してしまったけど。ただ、
……街中の観覧車だからな。たいした景色なんて見られないんじゃないのかな。
牧野には悪いけど、高いところから眺めたところで、ゴミゴミとした街並みに変化なんて訪れないだろう。そう思っていたのに、高度があがっていくにつれて、目に見えて景色が綺麗になっていく。それはいわゆる夜景というやつで、暗がりの中で燦々と輝く街の灯りが、自重しない星空のように目映く輝いていた。建物の窓から覗く蛍光灯の光、規則ただしく並ぶ街灯の輝き、それらを引き裂くように高速で行き交うクルマのヘッドライト、そのすべてが美しい。
「うわあっ!」
と感嘆の声を漏らしてしまったのは私だった。だけどそんな声を思わず漏らしてしまう程度に、眼下に広がる景色は美しかった。ただの街並みだったはずのそれは角度が変わるだけで、芸術品に昇華されていた。確かにこれは別の観覧車からの景色も見てみたいと思ってしまう。
「ほら、綺麗でしょう?」
勝ち誇ったようなドヤ顔にも腹が立たないほど、高所からの景色は綺麗だったから。
私は「そうだな」と答えて、牧野へと頷いてみせた。
「そ、そうだよね!」
しかし私の同意のなにがいけなかったのか、牧野は私に合わせて頷くと慌てた調子で窓の向こうへと視線を移す。そして自分が慌てていたことも忘れて景色に感嘆の声を漏らしていた。
牧野を見ているとき、私はよく『子どもみたいだな』という感想を心の中で漏らすけど。
こうして間近で彼女の反応を覗っていると、子どもよりもよっぽど素直なんだろうなと、思い直してしまう。子どもだってここまで純真無垢に自らの感情を表現はできないだろう、と。こんな彼女がそばにいてくれるから、私もまた素直に、この景色に感動できたのだと思う。
だけど。
それ以上に。
これはもう。
私の性みたいなものだけど、
この景色を眺める牧野のほうが、私にとっては、何倍も綺麗に感じられた。
窓の外を注視していた牧野が、私の熱視線に気づいてこちらを向く。ぱちくりとまばたきを繰り返す牧野に見つめられ、バツの悪さを感じていると、牧野がおもむろに口を開いた。
「私のこと描きたいの?」
それはストレートに私の願望を言い表した問いかけで、
「えっ、あっ……なんでわかったんだよ」
私は胸の内を見透かされたような心地になって、たじろいでしまう。
「なんか、真辺の言いたいこと、わかるようになってきたかも」
軽く身構えそうになっていた私に、牧野は笑いながらそんな末恐ろしいことを呟いていた。
――そんな簡単に他人の言いたいことをわかって堪るかよ!
とは思ったけど、もしかしたら私は相当わかりやすい顔をしているのかもしれなかった。
「いいよ。描いても」
軽い恐慌と混乱に襲われていた私に、牧野は優しい声音でそう呟いた。
「私のこと描いてくれてるときの真辺の目、好きだから」
そして優しい声で、そうつけたした。
そんなことを言われて素面でいられるほど、私のメンタルは強くなかった。
「……そこまで言うなら、お言葉に甘えようかな」
それ以上に、私の中にある『牧野を描きたい』という欲は強かった。
観覧車が一周する時間は約一〇分程度だという説明があった。描くのであれば、早いに越したことはないだろう。だから私はスケッチブックを開き、さっさと牧野のことを描き始めた。
すでにスケッチのモデルになることに慣れているのか、私がなにも言わなくても、牧野は窓の外を見つめる姿勢でとまってくれる。ただ、窓に反射したその目が、私のことをジッと見つめていたんだけど。スケッチの基礎である観察――を意識するまでもなく、油断すると私は牧野に見惚れて、手をとめてしまいそうになる。なるべく早く仕上げなければという想いはあったんだけど、結局、屋上に戻ってきたとき、私は想定の半分も絵を進められていなかった。
「もう一回乗ろっか」
先ほど宣言したとおり、私の表情を見ただけで言いたいことを察した牧野は、ゴンドラからおりるなり、列の最後尾にもう一度並び始めた。牧野の厚意に甘えて、私もその横に並ぶ。しかし二回目も途中で終わってしまい、私たちは苦笑と共に、三回目の観覧車に乗りこむ。絵は完成寸前だったけど、せっかくなら記憶の中ではなく目の前の牧野を描きたかったからから。
――やっぱり私は牧野のことが好きだ。
絵が仕上がっていくにつれて、その想いが徐々に強くなっていくのがわかる。牧野のことが好きだという想いをそのまま絵に乗せられるように、私は全力を尽くして彼女のことを描く。
だけどこの想いも牧野は、私のことを見ただけで、察してしまえるのだろうか。
不安になって牧野の顔を眺めていると、優しげに微笑まれる。
その微笑みは『すべてを理解した上での笑み』のようにも見えるし、ただ『見つめられたから笑ってみせただけ』のようにも見える。だけど本質すらわからないのに、私の中にあった不安はその笑みによって霧散してしまう。だから、私は最後の勢いに任せて絵を完成させた。
「完成した?」
私が筆を置くより先に、牧野がそう尋ねてくる。
どれだけ感度が高いんだよとツッコみたくなるけど、今は軽口を叩き合っているより、牧野にこの絵を見て欲しかったから。私は口を開く代わりに、スケッチブックを差しだした。
「うわあっ!」
私の絵を見た牧野は第一声、夜景を見おろしたときよりも熱っぽい歓声を口にした。べつに夜景と張り合っているつもりなんてなかったけど、反応のわずかな差に目がいってしまう。
そんな小さな差異すらも、今の私には嬉しくて堪らなかったのだ。
しかし自分の絵を見つめる牧野は、きっと私よりもよっぽど嬉しそうだった。
「私、こんなに綺麗?」
スケッチブックから顔をあげた牧野が、それこそ夜景なんかよりも素敵な笑顔を浮かべながら、私にそう尋ねてくる。私からしたら、そんなこと聞かなくてもわかりきっていることだったけど。牧野がそう言葉にして欲しいと言うのであれば、そうすることもやぶさかではない。
「こんなに綺麗だよ。私が言うんだから間違いない」
「嬉しいな」
えへへとだらしのない笑みをこぼしながら、牧野は何気ない仕草で、ギュッとスケッチブックを抱きしめる。その感極まったような仕草に、私の胸は、ただ一杯いっぱいになっていた。
「あのさ、牧野」
心の許容量から溢れた熱っぽい想いが、言葉となって口からこぼれ落ちる。先ほどまで器用に私の言いたいことを先読みしていた牧野は、なぜか沈黙して、私のことを見つめていた。
牧野もまた私が言葉にするのを待っているのかもしれない。
「私、これからもお前のこと描き続けたい」
そう思った私は途切れそうになる言葉を無理やり継いで、牧野に思いの丈をぶつける。
「来年も再来年も。高校を卒業したあとも――その先も」
つい数十分前に『来年のことなんてだれにもわからないから約束なんて取りつけないほうがいい』と考えていたはずなのに私はそれよりもさらに先の約束を牧野に告げてしまっていた。
いや、それは約束というか、単なる願望だったんだけど。
それでも牧野と一緒なら私はワガママになってしまうから。
どんな小さな約束でも、たくさん、交わしてしまいたいと思ってしまうから。
しかし牧野がどう答えてくれるかによって、その言葉の意味合いは大きく変わる。だから私は牧野の一挙一動――吐息の一粒さえ見逃さないように、ジッと彼女の言動を観察していた。