第10話 私は君を描きたい 09
不思議な時間だった。
べつに歩くことなんて好きでもなんでもなかった。むしろ私は『嫌い』と言ってしまってもいいほどで、ちょっとした移動にもバスや電車を使ってしまうタイプの人間だったから。
なのに牧野が隣にいるだけで、嫌いなものも『悪くない』と思えてしまう。このままもう少し牧野と一緒にいたら、歩くことそのものが『好き』にすらなってしまいそうですらあった。
この前の帰り道もそうだったけど。
歩いていると普段より少しだけ頭の回転が速くなるような気がする。普段は牧野の会話についていくのがやっとで、つっかえつっかえ、どもりどもりという調子が多いんだけど。こうやって歩いて話していると、私も牧野と並んで話せているような気がしてくる。もしかしたら歩く速度と同じで、会話のテンポもまた、牧野が私に会わせてくれていたのかもしれないけど。
学校の世間話とか。
私たちが出会う前の話とか。
これから先の未来の話とか。
住宅地にぽつんと生えてる妙な看板で笑ったり。国道沿いのチェーン店に『アレは行ったことがある』とか『あの店の○○はいまいちだった』とか言ってみせたり。そうやって歩いているうちに『牧野は看板を見かけるたびにそれを音読し始める』という癖があることを知った。それを指摘したら中学の修学旅行のときのバスで延々と看板を読み続けてたと話していた。一度は見てみたいけど三十秒ぐらい見たところで『怖いからやめろ』と制止してしまいそうだ。
「おなか空いたね」
「あー、言われたらおなか空いてきた」
時計を見ると時刻は十時前とまだ早かったけど、出発したのが七時を回ったところだったはずだから、三時間近くは歩いているのだ。軽食をとったところで文句は言われないだろう。
「おにぎり食べるか?」
「あ、うん! 食べたい」
取ってーと牧野が無邪気に私へと背中を向けてくる。いちいち傘を行き来させるのも面倒だったから、私は言われるがまま、牧野のカバンを開けて、先ほど奪われたおにぎりを取る。
拍子、私の体は傘からはみでる。
しかし体が濡れることはなかった。
ちらりと空を仰ぎ見ると雲の切れ間から陽光が覗いてすらいて。天気予報が完全に外れたことを示していた。たぶんあの切れ間がこれから広がっていき、晴れていくことだろう。だけどそれを牧野に伝えることはなく、そのまま自分のおにぎりも取りだして牧野の隣に収まった。
今はもう少しだけ牧野とくっついていたかったから。
おにぎりの具は両方ともタレが染みこんだ豚肉で牧野は大喜びしていた。
○
それからもう一時間ほど歩いたところで札駅に辿り着く。
ちらりと見あげた空は先ほどまでの沈鬱さが嘘のように青々としていた。私の頭を襲っていた圧迫するような痛みも引いていて、もしかしたら今日はもう雨は降らないのかもしれない。
頭痛のほうは単に『牧野と話していたこと』が原因で引いてくれたのかもしれないが。
気持ち的にはまだまだピンピンしていたけど日ごろの運動不足が祟って、両足が悲鳴をあげていた。そんな私に「お気に入りの場所に連れて行ってあげよう」と大袈裟に告げて、牧野が向かった先は札駅に隣接しているヨドバシカメラだった。正面の入口から中に入ると、喧しいCMのBGMが大音量で流されている。BGMと同量か、それ以上に喧しく思える所狭しと並んだ案内図や機械類を横目に、牧野は迷いない足取りでエスカレーターをのぼっていく。私もまた、彼女に黙ってついていく。建物の屋上とか、中にある喫茶店だろうか……? なんてことを考えていた私の気持ちをよそに牧野が向かったのはマッサージチェアのコーナーだった。
……いや、マッサージチェアって……そんなことないよな?
と思っていた私の逃げ道を、牧野は「ここ!」と塞いだのだった。
「んー……今日はどれにしようかな……やっぱり一番高いこれにしよう!」
戸惑う私をよそに、牧野は謎の常連風を吹かせながら五十六万するマッサージチェアに腰かけた。それから慣れた動作でカバンを置いて靴を脱ぎ、足元にあるくぼみに足を嵌める。テキパキとリモコンを操作して『全身もみほぐし』を始める牧野を私は黙って見おろしていた。
「あー……気持ちいいー……ほら、真辺も隣あいてるよ」
あいてるからなんなんだって感じだったけど牧野は「早くしないと取られちゃうよ」と謎の心配をしていた。しばらくボーッと牧野の姿を眺める。口を半開きにして、そこから「あー」と、なんとも気持ちよさそうな呻き声が漏れている。単に言葉で誘われるより、実際にそうやって『気持ちよさそうな声』をだされたほうが、誘惑としては何倍も強度の高いものだった。
……もう少し牧野の顔を見ていたかったけど。
これ以上、気持ちよさそうな顔を見ていると妙な気が起きそうだったから。
私はそこから逃れるためにも自ら快楽に沈む道を選ぶしかなかった。
「……わかったよ」
私も牧野に倣ってカバンを置いて、靴を脱いで、隣のマッサージチェアに腰かける。私みたいなちんちくりんが使って、ちゃんとマッサージとして機能するかは不安だったけど。しかしリモコンを操作してすぐにマッサージチェアが私の体の位置を確認し始めて、小さな私のサイズに合わせたマッサージを行ってくれる。背中や肩はもちろん気持ちよかったけど、それ以上に足の裏やふくらはぎをグリグリと押しこんでくれる球体が気持ち良くて仕方がない。ここまで数十キロという道のりを歩いてきたこともあって、なにも考えられなくなってしまう。
「うわ……すごっ、なにこれ……きもちっ、あっ……」
喋ろうと口を開くと口からは快楽で歪んだ声が漏れる。
「ね? 気持ちいいでしょう?」
ふかふかのマッサージチェアに深く沈みこんでいるせいで隣の牧野の顔は覗えないけど。それでも今までの経験から、これ以上とないほどのドヤ顔を披露していることだけはわかった。
牧野のドヤ顔を想像すると腹が立つと同時に微笑ましい気持ちになってくる。たとえば自分の成果を報告してくる子どもと触れ合う親というのはこんな気持ちなのかも知れなかった。子どもなんて喧しいだけで、まともな気遣いもできないから嫌いだったはずなのに。
だけどそれが牧野との子どもであれば――
――って、それはおかしいな?
子どもだって言ってるのに『その相手が牧野であれば』と妄想するのもおかしいけど。『それが牧野との子どもであれば』と想像するのは、それ以上になにもかもがおかしい気がした。
「真辺ー? 気持ちよすぎて失神しちゃった?」
自分の妄想に溺れて言葉を失っていた私に牧野が確認の声を投げかけてくる。
「う、うるさい! 今それどころじゃないんだよ!」
完全にとち狂っていた私は牧野の心配を無下にしてしまう。しかしそれに対して牧野は気を悪くするどころか「あはは、どんだけハマってるのさ」となにかを勘違いして笑っていた。
「私も集中しよっと」
そう謎の宣言すると、本当に牧野は黙り始めた。