第10話 私は君を描きたい 07
「……入れて?」
結局、怖ず怖ずと口を開いたのは牧野のほうで、私はまたそれに乗っかる形になった。
「……牧野がいいなら……まあ、べつに、いいけど」
素直になれない私は、そうやって、憎まれ口にも似た了承を行うのでやっとだった。
「えっ! 入れて貰うのにイヤとかないよ! あっ、傘、私、持つね」
背高いし、と牧野は私の手から傘を取って、バカみたいな勢いで開く。布地に残っていた雨粒が勢いに乗って弾けて、牧野は散っていった雨粒を眺めて「うむ」と満足気に頷いていた。
「ほら、入って入って」
「あ、はい。お邪魔します」
私はなんでか知らないけど恐る恐る、頭をさげながら傘の中に入る。
「なんで自分の傘なのに恐縮してるの」
「いや、お前が我が物顔で私の傘使ってるからだろ」
なんて普段通りの漫談じみたやりとりをしたところで牧野が歩き始める。背の小さい私に合わせてくれているのか、その歩みはこの前の帰路を思わせる程度に、遅々としたものだった。
「あ、肩濡れるよ。ちゃんと中に入って」
傘からでていた私の肩を目敏く発見した牧野が、私の肩を抱き寄せてくる。
腕と腕が触れ合うとかそういうレベルではなく、ほとんど密着していた。
今日も今日とて札幌の空気は肌寒い。
だから、これぐらい密着してくれるほうがありがたかった。
前々から思っていたけど牧野は体温が高く、そばにいるとそれだけで体が温まる。
カイロなんて使わずとも、彼女の体が天然のカイロのようだった。
……しっかし今日の牧野、普段以上にパーソナルスペースがガバガバだな。
もともとやたらと距離感が近かったり、スキンシップが多いやつではあったけど。今日はいつにも増して距離感が近い。肌寒いせいで普段より温もりを求めているのかもしれなかった。
「真辺は休みの日とかなにしてるの?」
触れ合っている腕の感触を楽しんでいた私に、牧野がそう疑問を投げかけてくる。日常会話の教科書にでも載っていそうなその質問に、なんとなく『模範解答』じみたものを探してしまう。どんな回答のウケがいいのか――なんて、小賢しいことを考えそうになっていた。しかし小細工を弄せるほど人間関係に明るくない私は、結局、真実を明け透けに語るしかなかった。
「画集眺めたり、画家の動画見たり、絵を描いたり……かな」
自分で言っていて『なんの面白味もないな……』と自己嫌悪に陥りそうになる。
「へー! 巧い巧いとは思ってたけど、やっぱり絵のことばっかり考えてるんだ」
そんな状態だったから牧野にそう言われたとき、私は馬鹿にされているとしか受け取れず、
「……悪かったな」
としか返せなかった。突然卑屈になった私の隣で牧野が慌てるのがわかった。
「えっ、なんで!? 普通に凄いなって思っただけだってば!」
「すご……くはないだろ。やりたくてやってるだけだし。それ以外のことには興味ないし」
やりたいことしかやれないなんて、欲望の趣くままに動き回る幼児となんら変わらない。
「それが凄いんだってば! 私なんてアレコレやりたいこと多すぎて絞りきれないもん!」
牧野は私をフォローするためか必死な調子で叫んだ。私からしてみれば牧野の言う『絞りきれないほどアレコレに興味を抱けるところ』のほうが何倍も凄いと思った。だけどこのまま会話を続けたところで平行線になりそうだったから、こちらからも問を投げかけることにする。
「そういう牧野はなにやってんの? 休みの日」
「えっ、私かー……」
先ほどまで滑りがよかったにも関わらず、牧野は言葉を濁してしまう。
「さっき『アレコレやりたいことやりたいことが多すぎる』って言ってただろ」
それを聞かせてくれよ、とせっついても牧野は「恥ずかしいな」とこぼすだけだった。
「えっ……もしかして言えないようなことしてんの?」
その反応が一周回って『つついて欲しそう』に見えたから、私はお約束の問を投げつける。
「……………………」
しかし牧野は私の問に返答を寄越さず、ひさしぶりにその視線を、周囲に彷徨わせ始めた。本当に『私には言えないこと』をやっているんじゃないかと思って、こちらが慌ててしまう。
「えっ、な、なんだよその反応!」
「……………………………………」
私のツッコミ――と言うか悲鳴か?――に対しても牧野の反応は変わらなくて。私の頭には『私に言えないようなこと』をしている牧野の姿が思い浮かんでしまう。その端正な顔立ちだけではなく裸体を描いた経験があるせいで、ありありとそうした光景が思い浮かんでいた。
「あはっ」
完全に内側へと篭もりきりになっていた私の意識を、牧野の笑い声が現実に引き戻した。
「なっ、なに笑ってんだよ!」
こっちは笑い事じゃ済まされないんだぞ! と私の心が謎の叫び声をあげる。
「冗談だよ、冗談。べつに言えないようなことなんてしてないよ」
なんて言いながら牧野はキャッキャと笑う。
しかし今さら『冗談だよ』と言われたところで、一度頭に思い浮かんでしまった光景はどうすることもできない。そのせいで私は、牧野の笑い声にうまく追従することもできなかった。
「真辺ってば慌てすぎだってば。どんなこと考えてたのさ」
ニヤニヤ笑いをその顔に貼りつけながら牧野が尋ねてくる。普通そんなふうに『他人を小馬鹿にしたような笑い』をしたら、ひとの顔なんて簡単に歪んでしまうものだと思うけど。
牧野の端正な顔立ちであれば、そんな笑いでも綺麗に見えてしまうのだった。
「…………………………」
牧野の顔に見惚れながら私は返事を紡がずに黙りこむ。
「えっ、なに考えてたのさ!? 私に言えないようなことなの!?」
沈黙を受けて、牧野が先ほどの私みたいに慌てるのを見て私は満足する。
「も、もういいだろ、このやりとりは。で、休日はなにしてんの?」
お互い混乱を一巡したこともあってか、牧野はそれ以上深追いをしてくることはなかった。
「マンガとか雑誌読んだり、動画見たり……かな?」
「それのどこが恥ずかしいんだよ」
「真辺みたいにちゃんとしてないから恥ずかしいなって思って」
私の名前を呼びながら、牧野はちらりと私の顔を盗み見てくる。
なにかひとつのことに邁進して、それを極める。
そんなふうに表現すれば聞こえはいいけれど。
私の場合はただ単に選択肢がなかっただけだ。
他にやれることもやりたいこともなく、これを極めなければ、ただの社会不適合者になるしかないという確信を幼いながらに持っていたというだけ。世の中に溢れかえっている天才だって私と似たり寄ったりだろうし、一歩間違えば落伍するという点においてなにも変わらない。
それが今までの私の認識だったはずなのに。
牧野が『ちゃんとしてる』と思ってくれていたことがただただ嬉しくて。
私が『これしかない』と思っていたことが、ちゃんと社会――いや、そんな大それたものじゃなくて――牧野と繋がるための道具になっていたのだという事実がこの上なく嬉しかった。
「真辺……どうかした?」
「あ、いや……なんでもない」
だけどこの話の流れでいきなり自分語りをするのもおかしいだろうから。
私は胸の奥から湧きあがってきた温かなものを飲みこんで、話題を振る。