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第10話 私は君を描きたい 05




「もう逃げる気も失せたから、とりあえず、その……離れて欲しいんだけど……」


 このままだと延々と拘束され続けることになりそうだったから、こちらからそう告げておくことにする。牧野は『はっ!』という顔をして、それからもごもごと口を動かし始めた。


「あ、う、うん。それもそうだね」


 牧野は弾かれたように同意を示すものの、どうしてか、なかなか動く様子を見せない。こちらから体を押しのけるのも気が退けて、もうしばらく私と牧野は見つめ合うことになった。


 それからもう数十秒ほどたったところで、牧野はようやく満足したのか、


「よし」


 とよくわからないことを呟いて、私のそばから離れたのだった。


 ……なにが『よし』なんだ。


 しかも離れたとは言っても、歩幅一歩分だったから、相変わらず距離自体は近かったし。


 ……どんだけパーソナルスペースがガバガバなんだ。


 相変わらず口が麻痺したように動かなかったから、代わりに心が小言をはき続ける。こちらからもう一歩分距離を置いて深呼吸を繰り返すことで、ようやく多少の冷静さが戻ってくる。そこで私はこちらに恨めしげな視線を向けてくる男の存在を思いだす。先ほどまで牧野と話していた例のの男子で、かなり距離が開いてるのにこちらを見つめ続ける胆力は凄いと思う。


「牧野、あいつ、いいのか?」

「うん。知らないひとだから」


 牧野はなんでもないふうに言い返してくる。

 だけど私からしてみたらそちらのほうが問題だった。


「知らないひとって……ふーん。親しげだったから、てっきり仲いいのかと思ってた」


 自分では平静を装えたつもりだったけど、牧野はニヤニヤ笑いを顔に貼りつけていた。


「な、なんだよ!」

「いやー、真辺、それでヤキモチやいてたのかなって」

「…………………………」


 返事が滞ってしまったのは、自分でも、その問に対する答えがわからなかったからだ。確かに私は牧野があの男と話してるのを見たとき、なんとも言えないモヤモヤに襲われていた。


 全部がどうでもよくなって、この会場にきたことすら後悔してしまった。

 あれだけ会いたいと思っていたはずの牧野の顔がなんとも憎らしく見えてしまったのだ。


 先ほどは自分の感情を見つめている余裕なんてなかったけど。今こうして、あのときの想いを見つめ返してみると、それは『嫉妬』と呼ぶのがもっとも相応しい感情のように思われた。


「…………………………」

「真辺さー……」


 無言であれこれと思い悩んでいた私の表情からなにかを察したのか、牧野がジトッとした眼差しで私のことを睨んでくる。それは湿度の高いこの空間より、さらに湿った視線だった。


 私も言葉を紡げないまま牧野のことを見つめ返す。


 最終的に、珍しく牧野のほうが根負けしたように、ガバッと私から視線を逸らした。


 ……確かに私みたいなやつから嫉妬されたってキモイだけだろうけどさ!


 そんな反応することないだろ! と気持ちが一気にささくれ立ってしまう。

 しかも牧野は私を傷つけまいとするためか、その顔を両手で覆って顔を隠し始めるし。


「な、なんだよ! ヤキモチなんてやいてないっての!」


 怖くて話しかけられなかっただけだっての! と叫ぶ私。

 本心を悟られないようにした結果、恥を上塗りしたような気がした。


「はあ、うん。そうだね。そうだよね。ごめんね」


 牧野も牧野で私に生温い視線を向けながら「うんうん」と頷いていた。もはやその反応がどんな感情を意味しているのかすらわからず、今度は私が牧野をジロジロ睨みつける番だった。


「と言うか、知らないひとについて行くなって小学生の頃に言われなかったか?」


 これ以上、話題の矛先がこちらを向いているのは不都合だったから、ちょっとしたカウンターのつもりで牧野にそう尋ねる。それに対して牧野はなぜか子どもみたいに顔を華やがせた。


「あっ、いや、でも大丈夫! お菓子くれたから!」


 それに加えてドーン! と胸を張ってくるものだから、まったくもって意味がわからない。


「余計に不審者そのもじゃねーか。攫われたらどうすんだ」

「攫われないよ!? 真辺は私のことなんだと思ってるのさ」


 お前こそ自分のことをなんだと思ってるんだって感じだったけど。


 知らない男にお菓子なんかでついていっちゃダメだって金剛寺たちに習わなかったのだろうか。だとしたら、もう少し教育をしっかりしてくれと、あいつらに言わなくちゃいけない。


 いきなり私がそんなことを言いだしたら私こそが不審者だろうから絶対に言えないけど。


「それにお菓子なら私だって……」


 なんて牧野への小言をあれこれ考えていたのに、私の口が発したのはそんな言葉だった。


「えっ」


 口からこぼれ落ちた言葉は空気にすら飲みこまれてしまいそうなほどに小さかったのに。

 牧野は耳聡く、私の中途半端な言葉を拾ってみせた。だけど、


「あっ、いや――」


 ――これだとやっぱり私があの男にヤキモチやいてるみたいじゃねーか!


 と今の言葉を打ち消そうとするんだけど、それよりも早く牧野が、


「私のこと攫いたいの?」


 よくわからない問を投げかけてくる。


「そっちじゃねーだろ! お、お菓子が欲しいなら、私がやるよって話」


 牧野の言葉にツッコミどころしかないせいで私は自分の言いたいことも忘れて叫んでしまう。言葉を聞いた牧野はと言うと「ホント!?」と期待の眼差しを私のバッグに向けていた。


 どんだけ食い意地張ってるんだ、こいつは。


 ……でもまあ、お菓子ぐらい、なにかしら入ってるだろ。


 と、牧野の視線に導かれるがまま、カバンの中に手を突っこんでみる。


 しかし今日はマラソン大会ということもあって普段使いのスクールバッグではなく、あまり使わない軽めのバッグだったから、中に入ってる食物は朝入れてきた巾着袋だけだった。


 他に入ってるものは各カバンに入れっぱなしにしているスケッチブックと筆記用具だけだ。


「あー……おにぎりしかないわ」

「えっ」


 しかし私から『おにぎり』という言葉を聞いて、牧野の眼差しが一変して狩人のそれになった。先ほどまでの『期待』とは異なる、言葉を間違えたらそのまま奪われそうな目だった。


 ……どういう感情なんだ、それ。


 感情の質を図りかねた私は首を傾げることしかできない。


「真辺が作ったの?」


 そんな物騒な目をしながら、しかし口調は普段通りの穏やかさで、牧野が尋ねてくる。そのギャップがかえって不気味だったせいで、私はやけに緊張しながら口を開くことになった。


「あ、いや、母親が」

「そっか……」


 今の言葉のどこが悪かったのか、牧野は露骨にガッカリしていた。


 少なくとも私が作ったおにぎりより母の作ったおにぎりのほうが美味しいはずだけど。そもそもこいつはいったいなにを期待していたのか。その表情だけでは、なにも読めなかった。


「……でも貰っとこうかな」

「貰うのかよ」


 しかも『でも』とかいう渋々みたいな調子だったし。そんな調子のやつに私の昼ご飯を持っていかれたくはなかったけど、牧野はすでに私のカバンに手を突っこみ、巾着袋を取りだしていた。牧野はその中からおにぎりを二個取りだすと、そのうち一個を私に差しだしてきた。


「あげる」

「……どうも」


 手渡さないでいいから巾着袋に入れてカバンに戻してくれって感じだったけど。なぜか物凄くホクホク顔をしている牧野にそうとは言えず、私たちはおのおの自分のカバンにおにぎりをしまう。なんともバカらしいやりとりだったけど、そのおかげでようやく我に返ってくる。




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