第10話 私は君を描きたい 04
……帰ろうかな。
この調子だと牧野と顔を合わせたところで、二言三言で解散なんてことになりかねない。その上で、改めてあの男と別の場所に遊びに行く光景なんて見せつけられたら、死ぬ気がする。
だったら最初から『私の意志』で逃げてしまうほうが傷だって浅く済みそうだ。
……ガラナを飲み終わるまで、にするかな。
それまでは牧野の様子を眺めてみて、これといったアクションがなかったら帰る。ある程度は自分で時間を調整できる点も含めて、いい塩梅だと思いながら、ガラナを呷ろうとする。
しかし私の口に流れこんできたのは、すでに冷気を失った数滴の粒だった。
――えっ、こっわ。
どうやら『例のアレ』が発動して、感情にまかせてガラナをがぶ飲みしていたらしい。同時に、こんな状態でこれ以上牧野を眺める気にもなれず、さっさと帰ってしまうことに決めた。
私がペットボトル用のゴミ箱を探し始めるのと同時、牧野がスマホを取りだすのが見えた。
――おせーんだよ。
完全にふて腐れていた私は心の中で毒づきながら、牧野に背を向けてゴミ箱を探し続ける。それなりに距離が開いているから、前もって相手がだれかを認識しておかないと、私がだれかもわからないだろう。それに加えて背を向けているのだから、見つけるのは絶望的だろう。
私が牧野を探す側だったら、すぐに見つけられる自信はあったけど。
だって牧野は背が高くてわかりやすい。
まあ、それはあくまでオマケみたいなもので、それ以上に私は彼女のことが、
……好きだしな。
なんて感傷に身を任せて気持ちの悪いことを考えてしまう。
ともあれ私は背の小さな没個性女だから、絶対に気づかれないという謎の自信があった。
――あっ、ゴミ箱。
なんて考えながらきょろきょろしていたらゴミ箱はすぐに見つかった。牧野からさらに離れるような形になるけど、べつに牧野に見つけて欲しいわけではないから、構いはしなかった。
ゴミ箱に空のボトルを入れて、最後にもう一度だけ――と牧野のほうを見る。
その瞬間、私の体は凍りついてしまった。
と言うのも、短距離走でもできそうなほど離れているのに、牧野と目が合ったからだ。
「真辺だ!」
それに続いて牧野がこの距離でもうるさいと感じる声で叫ぶ。牧野の隣に座っていた男子の体が大声で傾ぐのが見えて、さすがに同情しそうになる。それから牧野は慌てた様子で駆け寄ってくる。駆け寄ってくるとは言っても短距離に近い距離があったせいで、私は十数秒も待つことになった。とっさに逃げることも考えるけど慌てた様子の牧野を見ていると、そうする気も失せてくる。そうやって全速力でやってきた牧野が私の目前でブレーキをかけようとした。
「えっ、ちょ!」
しかし湿っていた靴底と濡れたタイルでは摩擦力がたりずに、そのまま私に衝突しそうになる。私は横に避けようとするんだけど、牧野が謎の俊敏さと器用さを披露して追尾してくる。
「なにその能力!?」
しかしゴミ箱を使うために壁際にいたおかげで、牧野との正面衝突は避けられた。と言うのも、牧野が私と衝突を避けるために、壁に手をついて勢いを殺してくれたのだ。ただ、勢いを殺しきるために腕を完全に伸ばせるわけもなく、絶妙な匙加減で曲がっていて、私の体は牧野の体と壁との隙間にあるわけで。無理やり言葉にするなら、エクストリーム壁ドンだった。
顔も体もなにもかもが近くて、湿度のせいで色濃くなった吐息が頭頂部に降りかかったり、質量でも帯びてるんじゃないかと不安になってくるほどの牧野の体臭が、鼻先に纏わりついてくる。だけど私の心臓が高鳴っているのは、ただ単に身の危険を感じたことが原因だった。
「いや、お前……周りに迷惑だし、その、危ないだろ」
とりあえず最低限の注意は行っておこうと、そうと告げておく。顔をあげてしまったら吐息が牧野の顔にかかってしまいそうだったから、私は顔をさげたまま胸元に向けて喋っていた。
「あっ、それもそうだね。ごめんごめん」
牧野は素直にそう呟くけど、その声の調子は、なにも反省してないようだった。
……と言うか、離れろよ。
と思うんだけど、うまく言葉がでてきてくれない。
緊張のせいか、困惑のせいか、混乱のせいか。
それともこの状況を心のどこかで楽しんでいる私がいるのか。
どれが原因だろうと、このまま牧野と壁にサンドイッチされていると、頭が茹であがってしまいそうだったから、どうにか逃れようとするんだけど、牧野がそれを許さなかった。具体的にどう『許さなかった』のかと言えば、あいていた右手をさらに壁にドン! してきたのだ。
牧野の両手で左右を塞がれた私は、為す術なく牧野お手製の檻に閉じこめられてしまう。
「でも、なんか真辺の様子、おかしかったから。それどころじゃなくて」
私を閉じこめたまま、牧野がそんなことを言う。
「おかしかったって……あの距離で、お前、なにがわかるってんだよ」
挙動不審だって言いたいのか?
この状況に対して開き直りつつあった私は、ケンカでも売るようにしてそう尋ねる。
「えっ、真辺が挙動不審なのはいつものことじゃん」
しかしケンカ腰の私に対して、牧野はそんなことを言ってのけたのだ。
おっ? なんだ? ケンカか? と私はそれを煽りと受け取るんだけど、
「だって真辺はそれが可愛いんだし」
牧野は褒めてるのか貶してるのかわからない言葉を口にしてくる。牧野に可愛いと言われて嬉しくないわけがなかったけど、その対象が『挙動不審』だったせいで反応に困る。それでもなお『嬉しい』のほうが勝っているような気がして、私はなんとも言えない気持ちになるが。
「でも、今日はなんかおかしかった」
「だからお前になにがわかるって――」
だけどそれで機嫌が戻るわけもなく、私は不機嫌を丸出しにした声を牧野に放とうとする。
しかし私の言葉は牧野に途中で遮られてしまう。
「わかるよ」
それは静かな――にも関わらず一本の芯が通った声だった。
当人である私なんかよりも、深く私のことを理解していそうな、そんな声だった。牧野がどんな顔でその言葉を発しているのか気になった私は、その声に引かれて顔をあげてしまう。
鼻先が擦れ合いそうな至近距離、私の息が、牧野の肌に触れるのがわかる。
だって同じように彼女の吐息もまた、私の肌に触れて、生温い感触を残していたから。
だけど問題は生温く、それでいて甘酸っぱい吐息ではなく。
その声以上に熱っぽく、芯を通すようにして私を見つめるその視線だった。
「わかるから、わかるの」
目が合ってからもう一度、牧野は私を説き伏せるように、ゆっくりとそう告げた。
私は喘ぐようにしてわずかに口を開く。
しかしその口から言葉を放つことはできず、ただ言葉と吐息の口移しを行う形になるだけだった。機嫌がいいとか、悪いとか、そういう次元を、牧野は易々と跳びこえていったのだ。
「あー……そっか」
感情がふわふわと浮き足立っていて、そうと答えるのがやっとの状態だった。
「うん」
対する牧野はと言えば、自分の言葉に照れるでもなく、力強く頷いてた。
「もう逃げる気も失せたから、とりあえず、その……離れて欲しいんだけど……」
このままだと延々と拘束され続けることになりそうだったから、こちらからそう告げておくことにする。牧野は『はっ!』という顔をして、それからもごもごと口を動かし始めた。
「あ、う、うん。それもそうだね」
牧野は弾かれたように同意を示すものの、どうしてか、なかなか動く様子を見せない。こちらから体を押しのけるのも気が退けて、もうしばらく私と牧野は見つめ合うことになった。
それからもう数十秒ほどたったところで、牧野はようやく満足したのか、
「よし」
とよくわからないことを呟いて、私のそばから離れたのだった。