第10話 私は君を描きたい 02
朝、起きると軽い頭痛に苛まれていた。
ズキズキとした痛みではなく、頭の中身がちょっとだけ圧迫されているような、居心地の悪い痛みだ。イヤな予感に苛まれながらカーテンを開けると、世界が鉛色に包まれていて苦笑する。雨は降っていないようだけど、頭痛の質からして気圧が相当低いのが覗える。そう遠くないうちに降るだろうな……と予想しながら、それでも二度寝する気にはなれず、リビングへと向かった。雨はまだ降っていないようだけど、湿度はそこそこ高く、フローリングの床に触れる足の裏がぺたぺたした。幼い頃は楽しかった気がするその感覚も、今は不快でしかない。
「あら、早いわね」
リビングでテレビを見ていた母が、ぺたぺたマヌケに起きてきた私に驚いていた。
私は平日であっても登校ギリギリに起床する女だから、休みの日ともなれば、昼過ぎまで起きてこないなんてザラだ。まあ、今日は学校行事が控えているんだから、これが普通だろう。
「天気予報、どうなってる?」
「今日は一日中曇りで、降ったりやんだり繰り返すってさ。降水確率は一日中六〇%」
マラソン大会だっけ? 病みあがりだし休んだら? と母にしては珍しく理解のあることを言ってくれる。単に朝ご飯を作るのが面倒で、二度寝させようとしてるだけかもしれないが。
母の理解には悪いけど、今日の私にはマラソン大会に行かなくちゃいけない理由がある。
「いや、行くよ」
「えっ」
私の発言が意外に過ぎたのか、母が私の顔を二度見する。
じつの娘を二度見すんなと心の中でツッコんでおく。
「なんで?」
それから母はなんとも反応に困る問を重ねてくる。
「なんでって……」
高校生が学校行事のマラソン大会に参加することに理由なんているのか? と口にだしたかったけど、思春期に入ったあたりから、母親との距離感が絶妙に掴めなくなっていたせいで、
「……授業だから」
そんな当たり障りのない言葉を、もごもごと呟くことしかできなかった。
「ふーん?」
私の言葉のなにが愉快だったのか、母がニヤニヤしながら私のことを眺めてくる。なんだか最近、どいつもこいつもニヤニヤしながら私のことを見てくる気がして、気分が悪かった。
「そもそも中止になるかもよ?」
「まあ、そのときはそのときだから」
天気と気圧的に十中八九中止になりそうな気はしたけど、それでも早起き自体は悪いことでもなんでもない。とりあえずこのまま家で様子を見たところで、文句は言われないだろう。
そんな私に母はもう一度「ふーん?」と、意味ありげに呟いて椅子から立ちあがった。
「仕方ないからママが腕によりをかけて朝ご飯を作ってやろう」
これまでの情報からいったいなにを受け取ったのか母はそんな宣言を披露していた。
「いや、普通に軽めのやつでいいから。マラソンだし」
「さいで」
と明らかに聞く気のない適当な返事をこぼしながら母はキッチンへと向かった。それを横目に、私は先に準備を始めておくことにした。歯を磨いて、顔を洗って、ジャージに着替える。
一通り準備を済ませてリビングに戻ってくるのと母が料理を終えるのは同時だった。
ドンッ! とアニメみたいな勢いで、母は持っていた丼をテーブルに置く。
「……豚丼だ」
香ばしいタレで炒められた大量の豚肉が、これでもかというほど重ねられている。大量の脂が溢れだし、ぬらぬらと輝くその様は、見ているだけで胃がもたれそうだった。せめてもの救いは、うちの豚丼にはご飯と豚肉の隙間に大量の千切りキャベツが挟まれていることだけど。
豚肉に合わせるようにこんもりとよそわれたキャベツは、私の目に敵としか映らなかった。
「マラソンやぞ」
「マラソンだから精をつけなくちゃでしょうよ」
この母は本当に『マラソン』がなんなのか理解しているのだろうか?
あまりしていないのかもしれない。
母は無知ではないけれど、なんだか酷く世間ズレしたところがあるから。
それとも、私が朝から脂まみれのものを食べても元気に走りだす小学生だとでも思ってるのか。私は昔から脂っぽいものが苦手だから、そんな時期なんて存在しないにも関わらず、だ。
まあ、作って貰ったものを突っぱねるわけにもいかず、私は麦茶を駆使しながら豚丼を平らげた。途中で追加されたお味噌汁には大量のジャガイモが入っていてキレそうになったけど。
○
一回り大きくなったおなかを休めるために、しばらくソファに座っていた。しかしたかだか数十分で天気に劇的な変化が訪れるようなことはなく、ただ眠気が再燃してきただけだった。これ以上、ソファに座っていたら二度寝することになりそうだったから、私はさっさと会場に向かうことにした。玄関の靴箱の上に、私のお弁当が入っている巾着袋が置いてあった。中を覗くと小ぶりのおにぎりがふたつ入っていたから、それをカバンの中にしまっておく。
それから逡巡の末、念のために傘立ての中から自分の黒い傘を手に取る。
「行ってきます」
最後にリビングにいるであろう母に告げて外にでた。
外気は部屋の中以上に冷たく湿った空気で満たされていた。外気それ自体はそれほどでもないけど、この空気の中で雨なんか降った日には、体が芯まで冷やされてしまうことだろう。
生徒の体調を第一に考えるなら、やはりマラソン大会はどう考えても中止だった。
少なくとも病みあがりである私が休んだところで、だれも文句は言わないだろう。
そうと理解しているはずなのに、私の足は地下鉄へと向かい続ける。
その足取りはアスファルトと擦れるような重たいもの――ではなく、どこか弾んだ足取りだった。どっかのだれかさんみたいな、子どもじみた足取りで私は地下鉄を目指していたのだ。
こんなふうに弾んだ足取りで歩くのは、もしかしたら生まれて初めてだったかもしれない。
歩くことそれ自体が楽しくて堪らないとでも言うように。
私はこのままどこまでも歩いていけそうな気すらしていた。
その途中、ポケットに入れてあったスマホが通知音を鳴らす。
「あー……」
その相手が母にしろ、牧野にしろ、内容を大まかに予想してしまう。そうと理解してもなお無視するわけにはいかずに、私は恐る恐るスマホをとりだして、メッセージをチェックした。
『マラソン大会中止だって! 先生が言ってた!』
LINEの送り主は牧野で、メッセージはどこまでも、私の予想を裏切らないものだった。
『まあ、そうだよな』
と、ふたつ返事にも似た調子で返信する。
ここまで悪足掻きを続けてみたけど、正式に中止が発表されたのであれば話は別だ。そうと理解してなお、私の足は地下鉄に向かい続ける。牧野から送られてきた文面を眺めながら。
……でも『先生が言ってた』ってどういうことだ?
時代遅れの連絡網で先生から牧野に直接連絡がいった――ということだろうか。だけど、牧野のテンション的に『電話でそれを聞いた』という感じではなさそうだった。牧野の場合、とりあえず語尾には『!』をつけるという癖がありそうだから、なんとも言えなかったけど。
『牧野、どこにいんの?』
まあ、悶々と悩むより確かめるほうが早いかと、私は牧野に直接そう尋ねた。
『私、一番早い地下鉄で会場きちゃったんだよね。だからもう会場』
案の定と言うか、なんと言うか、牧野はそんな『らしい』ことを言っていた。
それから例のキモいクマが泣き崩れているスタンプが送られてくる。
元気なのか、落ち込んでるのか、このやりとりからだとまったくわからない。
そんな折、スマホの画面に雨粒が当たって弾ける。
キモいクマに当たった雨粒が無慈悲な追い討ちめいていて私は少しだけ笑った。