第10話 私は君を描きたい 01
私が牧野を描いてから、早くも数日たっていた。
あれから牧野とは顔を合わせていない。
絵を描き終えて、もう用も済んだから――とかそんな話ではなく、単にあのあと風邪を引いてしまっただけだ。暖房の効いた準備室で汗をかき、そのまま外にでてしまったのがいけなかったらしい。たぶん『一仕事終えた』という精神的なゆるみも、一役買っているのだと思う。
――裸になっていた牧野じゃなくて私が風邪を引くってあたりなんとも情けないけど。
熱や喉の痛みといった『風邪の症状』はひいて体調もだいぶよくなった。
ただ精神的な疲労というか、虚脱感めいた無気力が、私の中に残り続けていた。
たぶん牧野を描き終えてしまったことで燃え尽き症候群に陥ってしまっているのだと思う。先日の絵で満足したわけではない。だけど、牧野を描けたのは、ひとつの節目には違いない。これから自分がなにをするべきなのか、頭に靄が掛かってしまったように考えるのが難しい。
――私は牧野のことが好きだ。
それを自覚してしまったこともまた、私の心を暗澹とさせている要因かもしれない。
本当なら絵を描き終えた勢いで、牧野に告白をするつもりだったのだ。
だけどわちゃわちゃしているうちにタイミングを逸してしまい今に至る。
あのときの勢いを完全に失ってしまった私が牧野に想いを告げることは不可能に近かった。だって冷静に考えれば考えるほど『ここから先』に発展するビジョンが見えなかったから。
牧野が美術準備室に通ってくれている今の状況ですら奇跡的なのだ。
すべては牧野の気まぐれで回っていて、私はそれに弄ばれることしかできない。だったら、牧野に告白することは単なる自己満足で、今の関係性を壊すのを早めることにしかならない。
……まあ、いつか牧野が今の状況飽きて、準備室にこなくなったら。
そのときはすべてを壊す前提で告白してしまうのもいいかもしれないと、そう思った。
――明日のマラソン大会、めんどくせーな。
今の流れとは関係なしに、そんなことを思う。
今は土曜日の晩なのだが、うちの学校のマラソン大会は身内で行うものではなく、市営のマラソンに学校全体で参加させられるものだった。そのせいで日曜が丸々潰れてしまうのだ。
一応、月曜日に振り替え休日は用意されているが、それが言い訳になるとも思えない。
……どうせ昨日、一昨日と休んでるんだから、明日も休んじまおうかな。
常識的に考えて病みあがりの第一歩目がマラソン大会なのはとち狂ってると思う。なにより現段階で絶好調とは言いがたいのだ。それなら念のために明日も休んで、月曜の代休も満喫して、火曜日から満を持して復帰するべきだ。どうせ、だれも心配なんてしてないだろうし。
――そうと決まれば今日は夜更かしだ。
そう気持ちを夜更かしモードに切り替えたところでスマホが通知を知らせた。
喧しい電子音に辟易しながら画面をチェックすると送信者は牧野だった。
普段は牧野からの連絡なんて喜びで跳びあがってしまうのに今日はイヤな予感がした。
恐る恐るスマホのロックを解除して連絡の内容をチェックすると、
『明日のマラソン大会、楽しみだね!』
そんな地球上で恐らくこいつしか発さないであろう言葉が並んでいた。私が既読をつけると同時に『ワクワク!』と自分で呟きながら、腋をワキワキしているクマのスタンプが届く。
『キモ』が八で『カワ』が二ぐらいの割合の、なんとも言えないセンスのスタンプだ。
……また妙なこと言ってやがる。
カイロの件からまったく反省していないのか、それともまた別のことを企んでいるのか。
それとも本当にマラソンが楽しみで仕方がないのか。
牧野ならば、どの可能性も充分に有り得そうだった。
『楽しみじゃねーよ』
既読をつけてしまった手前、無視をするわけにもいかずに、そう投げやりに返しておく。
メッセージを送ると同時に既読がついて、
『えー! 一緒に走ろうよー!』
牧野の声で脳内再生されそうなメッセージが返ってくる。完全にやめるタイミングを失ってしまったことに気づきながら、どうせ悶々としているだけだったからと相手をしてやる。
『一緒にってグループの友だちと走れよ』
『だって枇杷も花も遅いんだもん。私のスピードについてこられるのは真辺だけだよ』
ふたり仲良く保健室に運ばれた相方になに言ってんだよって感じだったけど。
そんな冗談でしかない言葉も、今の私にとっては、それなりに嬉しかった。
『でもその感じだとマラソン大会こられそうだね!』
一瞬、返事が滞っていた私に、牧野が追い討ちを重ねてくる。
……あっ、いや、お前からLINEがくる直前にサボるって決めたところなんだけど。
と、その文字列を見て、気持ちがもごもごし始める。
『まあ、風邪はほとんど治ってるからな』
だけど私が実際に送ったメッセージは、心で思い描いていたものとは真逆のものだった。たとえ先ほどの『一緒に走ろう』が牧野流の冗談だったとしても、それが真実である可能性が数%でもあるなら、その望みに縋るためだけに、マラソン大会に行く価値はあると思ったから。
……私、牧野のこと好きすぎないか?
と自分の単純さに呆れそうになるけど『恋』とはそういうものなのかもしれない。
『よかったー。でも、病みあがりなんだから無理はしないでね!』
と牧野が珍しく殊勝なことを言ってくれるものだから自然と頬が綻ぶ。
その気遣いのせいで『明日は絶対にマラソン大会に行こう』と私は決めたのだった。ただ、そのメッセージのあとにクマが『頑張れ!』と叫んでいるスタンプが送られてきたんだけど。
――いや、どっちだよ。
心の中でツッコミながら、その矛盾した物言いが牧野らしくて、私はひとりで笑っていた。