第9話 私は君を描く 08
流れるように『見る』から『触る』へ、さらに『舐める』に発展した自分の意識に驚いてしまう。それはもはや自分の欲望でしかないことも薄々わかったから、なおのこと恐ろしい。
――だけど口か。
今まで意識したことはなかったけど、規則ただしく並ぶ宝石めいた歯や、軟体めいた舌、桃色の毒々しくも見える口の内側――そういった対象は絵として書くのも面白いかもしれない。
――なんだかドキドキしてきたな。
そんなよくわからないことを考えて、なぜか胸を躍らせていた私を、
「はやふー」
牧野がふにゃふにゃした声で急かしてくる。
「……わ、わかったよ」
もう一度、ほらと告げて、私は牧野の口へとチョコレートを運んでいく。しかし唇の隙間に指を差し入れてチョコを放ろうとしても、溶けたチョコが指にくっついているせいでうまくいかない。だから私は仕方なく――本当に仕方なく――チョコを牧野の下唇に擦りつけようとする。アーモンドが舌の上に乗り、私の指についたチョコが、柔らかな唇に擦りつけられる。
「んっ」
となぜか熱っぽい吐息を漏らしながら、牧野はアーモンドを掬うように、舌をわずかに動かしてみせる。アーモンドが纏っていたチョコがあっという間に溶け、唾液と混ざり合っていく様子が、私の目にはマジマジと見えた。なぜか私の指は最後にもう一度だけ牧野の唇を撫でてから、自分で見ていてもそう感じてしまう程度に名残惜しそうに、口から離れていった。私の指が離れるのを律儀に待ってから牧野は口を閉じ、それに続いてアーモンドを噛み砕く硬質な音が続いた。パキッ――と響く小気味よい音を聞いて、私の頭に、自分の意識が戻ってきた。
もぐもぐとアーモンドを咀嚼して牧野が「んー」と喉を鳴らす。不機嫌そうにも受け取れる声だったけど彼女がご満悦なのはその顔を見ていればわかった。溶けかけのチョコレートだけでこれだけ機嫌がよくなれるんだから、幼少期からなにも変わっていないのかもしれない。
「もう一個」
それから彼女は子どものような節操のなさでそう要求してきた。
私はもうどれだけ手が汚れようと構わなかったから、チョコを摘まんでやる。
問題だったのはそれに合わせて「んあー」と口を開いてみせた牧野のほうで。
その魔性じみた口の中を再度、私はマジマジと見つめてしまう。
唾液で光るアーモンドの破片、唇や歯にはチョコの残りカス。それから甘すぎる牧野の吐息の匂い。その口の中にチョコを塗りたくって、歯や舌や内頬を舐めたいという妙な衝動。
それらに一瞬で酔っ払った私は、操られたように牧野にチョコを与え続けていた。
十個ほどあったチョコレートは、あっという間に牧野の口の中へと消えていった。
残ったのは私の右手の指先をどす黒く染めるまっ黒なチョコレートだけで。
「汚れちゃったね」
ジッと自分の指先を見つめていた私に牧野はやたらと甘い声で囁いてくる。
――汚させたのはお前だろうが。
普段の私であればすぐにそうツッコミを入れられた。
いや、私は実際、そう牧野にツッコもうとしたはずだった。
なのにどうしてか言葉の代わりに迫りあがってきたのは心臓で、それが喉元に蓋をしてしまったように、私は言葉を発することはおろか、呼吸さえもままならない状況に陥っていた。
「……指についたチョコ、もったいないよ」
そんな私に追い討ちをかけるように牧野は囁く。
「まあ、そうな」
と、鼓動の波間を縫って喘ぐようにそう返した。
――もったいないよな。
牧野の言葉を受け取って、もう一度だけ心の中で呟いて、私は指についたチョコをなめる。その指はさんざん牧野の唇に触れ、擦られ、たぶん、多少の唾液ぐらいはついているはずだ。そうと意識するなというほうが難しく、その行為は『間接キス』のためだけに存在していた。
中のアーモンドで調和されるはずだったチョコは、脳を蕩かすぐらい甘過ぎたけど。
――今、牧野とキスをしたらこんな味がすんのかな。
私の頭は元からどろどろに溶けていたからそんなことはまったく気にならなかった。
ただ、どうしてか、どうしようもないくらいに、泣きそうになってしまう私がいた。
甘いチョコを味わっているはずなのに。
それ以上の切なさが、私を襲っていた。
切なさはすぐに息苦しさへと変わるが、それは深呼吸でどうにかなるタイプの息苦しさではなくて。その代わり私の体は、この甘過ぎるチョコの『おかわり』を求めているようだった。
だから私はチョコがなくなってもなお、自らの指を舐め続けていた。
そんな私が物珍しいのか、牧野がニヤニヤしながら見つめていたけど。
「……なんだよ」
「ううん」
私の不機嫌そうな声を受けてもなお、牧野は内から溢れる『ニヤニヤ』を隠そうとしない。それどころか、より一層、その顔に浮かぶ笑みを深めながら、それと同色の声で言った。
「指についたの舐めちゃうぐらい……チョコ、好きなんだなって」
「……………………」
黙って牧野のことを睨んでみても、彼女の表情はまったく変わらない。なのにその表情から受け取れる感情が変わったのは、きっと私の心境が少しだけ変化したことが原因だろう。
私にはなぜか――牧野が私のことを挑発しているように見えた。
「そうだよ……好きなんだよ」
だから私は負けじとそう言い返す。
なにを意識するでもなくそう言い返したのに、どうしてか牧野は目を丸くしていた。
「そっか」
それから細く長く、それでいてチョコの残り香が漂う吐息を漏らしてからそう呟く。
「真辺は好きなんだ」
その声は先ほどの甘過ぎるチョコを想起させるもので。
そうであることが自然であるかのように私の脳がどろどろになるのがわかる。アーモンドの硬い食感と独特の苦味が恋しくなるけど、この甘ったるさだって、決して嫌いではないのだ。
「……悪いかよ」
だから私はそう憎々しげに吐き捨て、それを牧野は、慈愛の笑みで拾いあげた。
「ううん。いいと思うよ」
私も好きだから。
そうまっすぐに放たれた牧野の言葉を、私はいったいどんな表情で聞いていただろう。
――なんの話をしているんだったか。
それすらも判然としないほど、私はチョコの甘味に酔っ払ってしまっていて。
これ以上溶けるものなんてなにもないはずなのに。
暖房の効きすぎた部屋は、それでもなお、私の中のなにかを溶かそうと躍起になっているようで。私たちはしばらく、言葉もないまま、意識を遠退かせるようにして見つめ合っていた。
口が勝手に動きだしそうになる。
チョコ以上に甘いなにかを求めて、舌が勝手に唇を舐めてしまう。
重心が前に偏って牧野の吐息をより多く浴びる。
甘ったるいその吐息にジリッ……と意識が焦げ、視界が一瞬まっ白に染まったその瞬間――
――ありとあらゆる音を塗り潰すようにしてチャイムが鳴り響いた。
私たちはどちらともなく『ハッ!』として、飛び退くようにして距離を置く。
牧野はソファに座っていたからいいけれど、私はソファに座ってるような、中腰のような曖昧な状態だったから、自分の勢いを御しきれずにそのまま尻餅をついてしまったのだった。
そんな私を見て牧野は「ぷっ」と笑う。
完全に私のことを小馬鹿にしきっていたけれど、それでも腹が立たないのが不思議だ。
「真辺はドジだなあ」
なんて言いながら、牧野は私に手を差し伸べる。
逡巡の末、ギュッとその手を握って引き上げて貰おうとする。
しかし手を握り合ったあとになって、今度は牧野のほうが逡巡の間を置いた。
触れ合った手は、なんだか妙に汗ばんでいて、気恥ずかしい想いに駆られる。だけどこのタイミングで手を振り払うのもおかしな話だから、どうすることもできずに、その手の熱を感じ続ける。結局、その点に関する説明はないまま、牧野は勢いに任せて私の体を引きあげる。
それから私たちは、そのぎこちなさをそのままに、帰り支度を済ませることにして。
互いになにを言うでもないまま、自然と一緒の帰り道について。
今までとはほんの少し異なるドギマギとした感覚は、しかし不思議と不愉快ではなくて。私は冷たい空気に手のひらを晒したまま牧野と手を繋ぎ続けているような心地を味わっていた。