第9話 私は君を描く 06
私の視線からなにかを受け取ったのか、牧野はおもむろに口を開いた。
「……欲しいの?」
しかし牧野の口にした言葉を私はすぐに理解することができなかった。
数秒、時計の秒針の音すら聞こえそうな沈黙を披露した後に、
「えっ、はっ……えっ!?」
そんな安っぽい驚愕の声を響かせてしまう。と言うか、
――欲しいって言ったらくれるのか!?
と心の中で叫び声をあげる。そのアホすぎる叫びが口から漏れなかったことに、ただ安堵する。しかし私の口からはそれ以上の言葉がでてくることもなく、口をパクパクしてしまう。
「……………………」
「……………………」
さらに数秒、互いの心中を探り合うように、無言で見つめ合う。
――欲しいって言ったらくれるのか!
と心の中で声を荒げて、その言葉を牧野に伝えようとする。
いや、伝わって困るのは私なんだけど。
だけど今の私にはそれ以外の感情も想いも存在しなかったから。
そんな無言のやりとりが数秒続いた後に、牧野はほんの少し唇をとがらせながら、
「えっち」
と呟いて、そのまま私の手からパンツを引ったくった。
えっち……なのか?
牧野に呟かれ、私の頭が自問する。
牧野は昨日も似たようなことを言っていた気がする。そのとき私は『えっちじゃない!』とすぐに否定していた。だけど今回の『えっち』は完全に私へと向けられたものだったから。
えっちじゃないと言い切る自信がなくて、沈黙を続けることしかできなかった。
「やっぱりえっちなんだ」
なぜかそうからかうような声で囁きながら、牧野が躙り寄ってくる。
「うっ」
全裸の状態で制服で胸元を隠し、左手にパンツを持っている謎の女が躙り寄ってくるのだ。しかもそれが私の惚れている女だというのだから、すでにキャパシティが溢れかえっていた。
「い、いいから着替えろよ!」
だから私は牧野にそう叫び、
「あ、そうだった。あっち向いててね」
牧野も牧野で、素で着替えるのを忘れてたのか「そうだった。そうだった」なんて言いながら、着替えの準備を始めた。私は牧野に言われるがまま、窓のほうを向くことにする。
窓の外はすでに藍色に染まっている。
ただ日の入りが早すぎるだけだから、現在時刻の参考にはなりはしなかったけど。
とりあえず開けっぱなしになっていたカーテンを閉じ、次の瞬間から手持ち無沙汰になる。
やることがなくなった瞬間、頭は牧野のことを考え始める。
……さっき私が『着替えろよ』って言わなかったら、どうなってたんだ。
躙り寄っていたということは、私になんらかの形で接触を図ろうとしていたということか。しかしそこまで考えたところで、思考が強制的にとまって、シャットダウンしてしまう。
どうやらここから先のことを考えるのは、私にはまだ早いらしかった。
……と言うかさっきより衣擦れの音、大きくなってないか?
たぶん私の神経が敏感になっているだけなんだろうけど。牧野がわざと大きな音を立てて着替えているんじゃないかと感じて、彼女が服を着ている姿をマジマジと想像してしまう。
だけどその瞬間を見計らったように、
「見たい?」
牧野がそんな問いかけを投げかけてくる。
「う、うるさい!」
私はもう声を荒げることしかできず、その場に蹲ってしまう。癇癪の起こし方が小学生並み自己嫌悪しかなかったけど、それぐらい一杯いっぱいだったのだ――と思いたかった。
○
牧野が着替えを終えて、私たちはソファと椅子という定位置に向かい合って座る。私はまだ気持ちが上擦り続けていたけど、牧野はすでにどこ吹く風で涼しい顔をして、ソファの脇に置きっぱなしになっていたココアを啜っていた。ぷっくりとした柔らかな唇がストローを挟みこみ、茶色い液体を吸いあげる様に私は見惚れて、今すぐ描写したい衝動に駆られていた。
あの唇の柔らかさをどう表現するべきかと思い悩む。
ストローを差し入れた口、わずかにたゆむ上唇と、隙間から覗く歯の白さ。
こうして『牧野をどうやって描くか』を考えている瞬間は私にとって至福だった。しかし、
「……飲みたいの?」
私の視線から牧野はなぜか『ココアを欲している』という情報を受け取ったらしい。ただ、最後に口に含んだ飲み物が数時間前に一気飲みしたガラナだったから、喉は渇いていた。
ほどよく暖房が効いた室内は乾燥しており、そうと意識すると息苦しいほどだった。
「くれんの?」
「一口なら」
「ん。じゃあ、ありがたく」
手を伸ばし、牧野からココアを受け取る。
拍子に指先と指先がわずかに触れ合うけど。
過剰に反応しそうになる自意識の頭をグッと押さえつける。
手が触れ合ったぐらいで浮き足立つなんて、気持ち悪くて仕方がないだろうから。
しかしココアを受け取ってからこれは間接キスなのではないか……? という当然の事実に気づいてしまう。今度のは『意識するな』というほうが難しく、唇が自然ともにょもにょし始める。直前に『描きたい』なんて思いながら唇を観察していたせいで、ありありと意識してしまう。しかしいつまでもストローを見つめて唇をもにょらせていたら、ただのヘンタイだ。
その証拠に牧野のやつが訝しむようにして私のことを見つめていたぐらいだし。
……べつにこれぐらいなんてことないっての!
私はヘンタイではないか、らひと思いにストローを舐め――いや、咥えることにした。
ずずっ……と濁った音を立てながら、ココアを吸いあげる。
室温と同化したココアは当然のように生温く、過多気味の糖分が舌や喉に絡みついてくる。当初の『喉を潤す』という目的はまったくもって果たされなかった挙げ句、徒労感があった。
……ふう。
と一息つきながら視線をあげると、穴があきそうな勢いで私を注視する牧野がいた。
「……なに見てんだよ」
「えっ、あっ、いや……」
私の難癖に、なぜか牧野が慌て始める。
そりゃあ自分のココアを受け取って挙動不審になってれば注視ぐらいするだろって感じだけど。だったら牧野はどうして慌ててるのか理解できず、今度は私が牧野を注視する番だった。
「凄い唇すぼめてるなって思って。タコさんみたい」
牧野は小馬鹿にするでもなく、心なしか真剣そうな口調でそんなことを言っていた。その真剣さがそのまま『本心であること』を示しているようで、私は普通に気恥ずかしかった。
「……子どものときからの癖なんだよ」
その気恥ずかしさをごまかしたい一心で口を開いた結果、牧野みたいな嘘をついていた。
「顔がまっ赤で口を窄めてって、それはもうタコ以外の何物でもないよ」
なんて言いながら、牧野はきゃっきゃと女子高生みたいに笑っていた。牧野が笑ってくれたというそれだけの理由で、多少の恥ぐらいは許せてしまえそうになるから不思議だった。
「あ、そうだ。ご褒美ちょうだい」
しかし牧野はいつもの『女子高生らしさ』を急に披露して、話を転がし始める。それが牧野らしさだということは理解しているんだけど、私はいつもそのライブ感についていけない。