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第9話 私は君を描く 04

 牧野も牧野で、それなりに私の操縦方法みたいなのがわかってきているのだろう。そうした互いの呼吸みたいなものを把握している相手は初めてだから、それが心地好くて仕方がない。


 その相手が牧野だという事実も、私の心を浮き足立たせていた。


 ――それからなにがあったっけな。


 同じ白衣に一緒に入って、写真を撮ったり、静電気にやられたりもした。


 今、恋心を自覚して改めて振り返ってみると、よくもまああんな状況に耐えられたものだと思う。理性より下心が勝って、単にあの状況を楽しんでいただけなのかもしれないけど。


 あとは準備室で会話とも呼べないような何気ないやりとりをした記憶しかなかった。

 牧野と出会ってから、それなりの時間がたってるつもりだったけど。

 その実、一ヶ月程度しかたっていないのだという事実に驚いた。


 しかも教室で話すことはほとんどなく、思い出はこの準備室の中にかぎられている。

 唯一の変化球と言えば、昨日、一緒に帰ったことぐらいだろう。


 それがこれからの私たちの関係性の変化を予兆しているのだとしたら嬉しくて堪らない。

 ああいうダラダラとした思い出をこれからも増やしていきたい。

 そうすれば今よりも、もっともっと綺麗に、牧野のことを描ける気がしたから。


 そうした事柄を経て今に至るわけだけど。


 ――そして今、私は、牧野の裸を描いているのだ。


 自分が恋をしている相手の裸を、描いてしまっているのだ。


 今までの日々の積み重ねと、恋心を改めて自覚してしまうと、自分がとんでもないことをしているのではないかという気持ちが湧いてくる。私の背後にある暖房が途端に暑苦しく感じられて、インフルエンザにでも罹ったときのように、顔が熱を帯びていて、倒れそうになる。


「顔まっ赤だよ!? えっ、と言うか、急にそんなことになるかな!?」


 その発熱があまりにも突然の出来事だったからか、牧野が妙な驚き方をしていた。


「うるせーな。元からだよ。小学生の頃は『リンゴちゃん』って呼ばれてたんだから」

「それ、私の嘘エピソードなんだけど!」


 私のついた適当な嘘を見過ごせなかったのか、牧野が『お前がそれを言っちゃダメだろ』ってことを叫んでいたけど。なんにしても、そうしたやりとりで、ほんの少しだけ頭が冷える。


 同時に牧野へのどうしようもないほど強い愛おしさが湧いてきたけど。


 その感情をぶつけるべきなのは牧野自身ではなくこの紙面だということを私は知っていた。


「もうちょっとで描き終わるから、それまで待っててくれ」

「え、あ、うん……?」


 私の言葉を受け取った牧野が疑問符と飲みこみながら頷くのがわかった。


 ――妥協はしない。


 だけど今日のこれが最後にさせるわけにもいかない。


 私は牧野のこれからと、自分の想いの変遷を描き続けたいのだから。


 そのために私ができることは、なんだってしなければならないと、そう強く思ったのだ。



       ○



 最後の線を引き、練り消しで形を整え、画材を置く。

 ソファの上で牧野が少しだけ緊張するのがわかる。

 強張った彼女と紙面で横たわる牧野の姿を見比べて、気づくと私は力強く頷いていた。


「書き終わった」


 今しがた描いた絵に、完全に納得したわけではない。


 見比べれば見比べるほど『牧野の美しさはこんなものではない』という想いが強まるのがわかる。だけどそれと同時に『これが今の私の限界なのだ』と思えるのも確かだったから。


 これ以上、手を加えたところで、絵が美しくなることもないだろう。

 それはきっと蛇足となって、絵についた瑕にしかなりえない。

 そう思ったから私は画材を置いて、牧野を見つめたのだった。


「えっと……」


 絵を描き終わったはずの私の表情が芳しくなかったからだろうか。


 牧野はどう反応すればいいのかわからないといった調子で私のことを見つめていた。


 だけど疑問を挟みこむ余地などないぐらい私の想いはシンプルだった。


「絵を見て欲しい」


 そうと呟く私の声もまたどこか強張り、緊張したものだったけど。

 今のところ、それをどうにかできるだけの余裕はなかったから。

 私はそれ以上言葉を紡ぐことなく、牧野にスケッチブックを手渡そうとする。

 牧野は私のスケッチブックにつられて慌てて体を起こそうとしていたが、


「あっ、いった! 腕、めっちゃ、痺れてる!」


 と、下敷きにしていた左腕を振り回し始めた。


 舌はまったく関係ないはずなのに、どうして片言になっているのだろう。ともあれ動き始めた瞬間これまでの『大人っぽさ』が霧散して『牧野っぽい感じ』になって私は笑ってしまう。


「牧野らしいな」


 モデル顔の牧野も好きだけど、愛おしさで言えば、今の牧野のほうが数段上だった。だからこういう、なにも意識していない普段の彼女を描くのも、楽しいのかもしれないと思った。


「……なんだよ?」


 そんなことを考えていた私を牧野がマジマジと見つめていたものだから、つい不機嫌な声を漏らしてしまう。だって今の牧野の目は、奇妙なものでも見るような丸みを帯びていたから。


「えっ、いや……真辺って笑うんだなって思って」

「あ? 笑うに決まってるだろ。私だって人間なんだから」

「そうなんだ?」


 と失礼なことを言って牧野もまたくつくつと笑い始める。


 その女子高生らしい等身大の笑いを見ていると、私の頬まで自然と綻ぶのがわかる。しかしそれと同時に牧野のあどけなさをマジマジと見せつけられて、自分の脳がバグってしまう。先ほどまでは芸術品を眺めるような目で見ていたから気にする余裕もなかったけど、私は今『恋をしている相手の裸を眺めているのだ』という事実に改めて気づいて、心臓が凍りついた。


 それに呼応するように全身が強張って、表情まで引き攣るのがわかった。


「……………………」

「どうしたの……?」


 急に凍りついて顔を引き攣らせた私に、牧野が怪訝そうに尋ねてくる。


「あ、いや、なんでもない……」


 反射的にそう答えてから『普通に終わったから服を着てくれ』と言えばよかったのでは? と気づく。だったらそうと気づいた段階で口を開けばよかったんだけど、それよりも早く、


「そう……? だったら、その……絵、見せて欲しいな」


 と怖ず怖ずといった調子で牧野が口を開いてみせたのだった。


 結果として私は牧野に服を着させるタイミングを失ってしまう。着替えに要する時間なんてたかが数分だろうけど。今の私は、その数分すら長いと感じてしまう精神状態だったから。


「えっ、あ、うん。そうだな。それは、見て……欲しい」


 完全に調子を崩しながらそう告げて、改めて書き終えたばかりの『作品』に視線を落とす。

 自分で描いた『芸術としての牧野』を見ると、少しだけ冷静さを取り戻すことができた。

 凍りついていた筋肉が解れて、心にも幾許かの余裕が戻ってきてくれたのだ。


 だから私はなかば無理やり解れた体を動かして、牧野にスケッチブックを手渡した。


「ん、ありがと」


 そうと応える牧野の声はどこか強張っていて、スケッチブックと共に私から緊張を受け取ったかのようだった。それならそれで、さっさと絵を見てくれればいいのに、彼女はスケッチブックを裏返して、太股の上に置く。それから震える息で何度か深呼吸を繰り返して私を見た。その瞳はともすれば『脱ぐ』と決意したときよりも色濃い緊張に包まれていたかもしれない。


「見るからね……?」


 恐る恐るといった調子で尋ねてくる牧野に私は頷く。その頃にはすでに私の中にあった劣情とでも呼ぶべき感情は霧散していて、私もまた真剣に、牧野の反応を覗っていた。私の視線の先で牧野もまた呼応するように頷いてからひと思いにスケッチブックをひっくり返した。




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