第1話 私は君を描きたい 04
――いや、こいつ、こんなに綺麗だったか。
気づくと呆然となるぐらい、その顔は美しかった。
思わず我を失うほど、その顔に見惚れてしまっていたのだ。
――私はいったい牧野のなにを見て、なにを描こうとしていたんだ。
牧野の反応とか、今後の学校生活とか、そんなものはどうでもいいから、今この瞬間、ひとりの芸術家として、自分の描いた牧野を見返したくなった。だから私は無駄な抵抗をやめて、牧野に自らの絵を曝けだす。同時に、自分で描いたその絵を見つめて、私は絶望を味わった。
……なにひとつ表現できてない。
あのときの牧野は眠っていて、今は起きているという根本的な違いはもちろんある。
それでもこうして見返してみると、もっと表現できる部分があったはずだ! と自己嫌悪に陥ってしまう。視姦なんて関係なしに、こんな絵では牧野に失礼だとしか思えなかった。
「うわっ、なにこの絵! めちゃくちゃ巧いじゃん!」
しかし私の気など知らない牧野は、手放しで絶賛していた。
「と言うか……えっ、これ、もしかしてだけど……私じゃない?」
「そうだよ。寝てる牧野を描こうと思ったの」
そう宣言できたのは、芸術家としての矜恃が理由だった。
ヘタにごまかしてしまったら、私は自分のことを許せなくなりそうだったから。
「やっぱりそうだよね! えー! すごっ、めっちゃ綺麗に描いてくれてるね!」
「こんなものじゃない!」
普段であれば絵を褒められれば相応に喜んでいたはずだ。
絵に対しては謙遜も驕りもしない。
そうした素直さが上達への一番の近道だと思っているから。
だからこそ、今はこんな中途半端な出来映えのものを褒めて貰いたくはなかった。
――だって本物の牧野は、もっとこんなに、綺麗なのだ。
こんな偽物とは違って――目の前の牧野は『本物の美』とでも言うべきものを携えている。本来であれば私の描いた絵にも『美の模倣』とでも言うべきものが備わっているはずなのに。
何度見返しても、私の絵には牧野の持っている美しさが表現されていなかった。
「牧野はもっと綺麗だ。こんな絵、牧野の美しさの一割も描けてない」
その熱に浮かされるようにして、私は牧野にそう告げる。
「えっ、あっ、そ、そうなの……?」
牧野は私の勢いに気圧されているようだったけど、今は取り繕っている余裕もなかった。
今という瞬間の熱を逃したくなかった。
この想いを少しも風化させたくはなかった。
だから私はらしくないと理解しながら、この勢いに身を任せた。
「だから牧野」
「は、はい!」
牧野がスッと背筋を伸ばしながら、らしくない返事をしてくる。
それは子どもっぽい芝居がかった仕草だった。
それでも、そんな仕草であっても彼女がやると綺麗だったから不思議だ。
「私に牧野の事をしっかりと描かせて欲しい」
そんな牧野に私はまっすぐの感情をぶつけた。
「こんな騙し討ちめいたマネじゃなくて、きちんと同意の上で、私のモデルになって欲しい」
「わ、わかりました。よろしくお願いします……?」
完全に圧倒されていたようだけど、ふたつ返事で了承を得られて安堵する。
だったらこんな不完全な作品に拘るのはやめて、さっそく新しいものを描き始めることにしよう。そう思って、新しいページの準備を始めたんだけど、牧野がなぜか慌て始めた。
「えっ、モデルって、い、今からやるの!?」
「そりゃあそうだろ。鉄は熱いうちに打てって言うし」
「言うかもしれないけど、もうこんな時間だから! 明日からにしよう!」
さっきまで門限なんてありませんみたいな顔していたのに。
どうして急にそんなことを言い始めたんだろうと私は牧野をじろじろ見つめる。
「そんな目で見られても! ダメなものはダメ!」
「……まあ、牧野がそう言うなら、仕方ないけど」
牧野が必死そうな声でそう言ってくるものだから、こちらとしても折れるしかない。
私としてはとにかく早いほうがいい! という感じだったんだけど。
……まあ、確かに六時過ぎだし、そういう意味でも明日に回したほうが利巧か。
筆が乗ってきたところで帰宅なんてことになったらそれこそ目も当てられない。
だったら明日、改めて描き始めたほうがいろいろと好都合だろう。
そう改めて思って牧野に頼もうと思ったんだけど、その顔を見て違和感に駆られてしまう。
「と言うか牧野、なんか顔赤くないか? こんな所で寝てたから風邪でも――」
「赤くない!」
「えっ」
風邪をひかれて休まれたら困るから、家に帰ったら温かくしてくれと思ったんだけど。
間髪入れずに牧野から大声で否定されてしまう。
「わ、私、元から顔が赤いんだ! だから大丈夫!」
小学生の頃なんて『リンゴちゃん』って呼ばれてたんだから! と謎のカミングアウトまでされてしまう。それは普通にりんご病というやつなのでは? と思ったけど口にはださない。
「いや……さっきまで普通に綺麗な白色だったよ」
「う、うるさいな! とにかく続きは明日! 今日はもう帰るから!」
じゃあね! と言い残すと、ソファの横に置いてあったスクールバッグを引っ掴んで、嵐のような勢いで立ち去っていった。取り残された私は、その背中を見つめることしかできない。
「あー……また明日な」
牧野が廊下に消えてから数十秒してから、胸に詰まっていた言葉を吐きだす。
どう考えても無意味な挨拶だったけど、それで少しだけ気持ちが楽になる。挨拶というものは言葉にして吐きだしておかないと、いつまでも喉につっかえるような心地になるから。
……私も帰るか。
ひとりでいてもどうせ絵なんて描けないなら、さっさと帰って明日に備えるにかぎる。そう思って画材等を片づけるために立ちあがり、最後にもう一度だけスケッチブックと向き直った。
「………………………………」
その絵がいかに実物を表現できてないかは、先ほど何度も反省したからいい。
問題はそこでようやく私が、自分の言葉を客観視できるようになったという点だった。
「いや……さっき私、牧野になんて言った!?」
――こんなものじゃない!
――牧野はもっと綺麗だ。こんなの牧野の美しさの一割も描けてない。
自分が先ほど叫んだ言葉がそっくりそのまま、頭蓋の内側でハウリングする。
「いや、牧野だってそりゃあ逃げるだろうよ」
自分の言葉の勢いと気持ち悪さに、今までの人生で一番の自己嫌悪が湧いてくる。
私は片づけの途中で蹲ったまま、そのまま文字どおり、立ち直れなくなってしまった。
……明日、牧野に合わせる顔がないぞ。
逃げられたのはまだいいとして、牧野とは明日以降も普通に教室で顔を合わせるのだ。
……もう学校に行くのやめようかな。
あまりの自己嫌悪と羞恥心のせいで、そんなことすら考えてしまう。
蹲っていた私は重力に導かれるように床に横たわる。
そしてその一時間後、校内の巡回をしていた生徒会に見つかり、悲鳴をあげられた。床で寝るなんて馬鹿な真似はよせという厳重注意を受け、さらに学校に行きたくない理由が増えた。
その日、私は眠れぬ夜を過ごしたのだった。