第9話 私は君を描く 03
だけどそのすべてが私には綺麗に見えたのだ。
この世に存在するなによりも美しく見えたのである。
この想いがなんなのか気づくのに、そう時間はかからなかった。
「真辺、どうかした?」
私の手がとまっていることに気づいたのか、牧野が不安気な声で尋ねてくる。
親の内心を探ろうとする子どものような表情と声をしている牧野がなんだか面白かった。
「なんでもねーよ」
その想いの正体を牧野に告げるわけにもいかず、私はなるだけ軽い調子でそう答えた。
「そう? ならいいけど」
私の言葉に納得したのか、していないのか。
牧野はそう答えるだけで、それ以上の追求はしてこなかった。
彼女自身、状況が状況のせいで、そうと尋ねる余裕もなかったのかもしれない。
――いや、言えるわけないだろ。
そんなどこか弱ったふうにも見える牧野を見つめながら、私は胸中で独りごちる。
だってこの想いは他でもない――
――恋心だったんだから。
たぶんこの想いは、準備室で牧野と出会ったあの瞬間に芽生えたものなのだろう。だからこそ私は、生まれて初めて『人物画』なんてものを描きたいと思ってしまったのだろうから。
それぐらいの強い想いがなければ、私が突き動かされることもなかっただろう。
同時にその想いが、牧野を描く邪魔をしていたのだと思う。
――現実の牧野はもっと綺麗で美しいはずだ。
どれだけ巧く描けたつもりでも、私の心はそう難癖をつけることをやめなかった。それをスランプのようなものだと結論づけた私は、少しのあいだ筆を置いてしまっていたわけだけど。
――そりゃあ、描こうと思って描けるわけがないよな。
だって私が描こうとしていたのは、きっと、この『恋心』だったのだから。
現実の牧野を見ているときの私の目は、どうしようもないほどに曇っていたのだ。だけどそれは感情的な問題で、芸術家としての私の目は牧野の本質を見抜き、等身大の彼女を描写していた。つまり私は現実と理想のギャップをひとりで勝手に生みだし、それをスランプだと思い苦悩していた。だからきっと、ただしいのは『どこか味気ないと感じたあの絵』なのだろう。
だけどもう、そんなことはどうでもよかった。
だって私が描きたいのは、この目を通して見た牧野の姿なんだから。
私にしか描けない牧野を、その美しさを、思いきり表現して見せたかったのだから。
――デッサンの基本は観察が九で、描写が一だ。
だけど私は対象を観察すると同時に、自分の心を見つめ直すべきなのだろう。
対象を目で観察し、指で触れて、鼻で嗅ぎ、耳で聞き、舌で味わうように。
私の中にいる牧野と、彼女へと向かうこの想いを観察して、それを描写することでしか私はきっと満足できないのだと思う。だから私は、この想いを吐きだすためだけに鉛筆を動かす。
それはすでにデッサンという枠からは外れていた。
だけど私はべつに、デッサンをやりたいわけではない。
牧野を描くなら、それが一番相応しいと思っただけだから。
なにより途中で道筋が変わるぐらいが、芸術として相応しいような気もしたから。
だから私は牧野の姿を眺め、描きながら、自分の想いを見つめ直す。
一番てっとりばやいのが、これまでの牧野とのやりとりを振り返ることのように思われた。
だから私は直感に従ってそうする。
この部屋で牧野と会ったとき、私はその美しさにあてられて、さっそく絵を描き始めた。
そして私の絵を見て『綺麗に描いてくれてるね』と言った牧野本人に、
『牧野はもっと綺麗だ。こんな絵、牧野の美しさの一割も描けてない』
そんな世迷い言と受け取られてもおかしくない言葉を口にしたのだ。
――最初から極まってるな。
これでどうして『牧野への恋心』に気づけなかったのかわからないけど。今まで恋人がいたこともなければ、だれかに好意を抱いたこともなかったのだからそれも仕方ないと思いたい。
ともあれ自分の発言を見返すに、これは一目惚れだったのだろう。
それから私は牧野に再チャレンジをするが撃沈し、その原因を基礎の不足だと考えてデッサンの勉強を始めた。そこで得た知識を元に『牧野を観察する』という奇行に走ったわけだが。
――今、改めて考えてみると、ただのストーカーだな。
思い返してみると牧野の友だちが私に対して警戒していたような気もするし。
たぶん割と露骨に不審者だったんだと思う。
そうしたストーカー行為が学校の外にまで及ばなくてよかったと心の底から思う。家の方向的に『ついて行こうと思えばついて行けた』というのが、なんとも危ういラインだった。
――観察と言えば、マラソンの事件もあったな。
マラソンに対して牧野が妙な張り切り(カイロ)を見せ、それ(カイロ)に巻きこまれた私ともども保健室送りになった事件だ。あそこでの出来事を振り返ると心臓が捻れそうになる。
……えっ、だって私、牧野のカイロ、舐めてたよな?
もはや『観察』というラインを易々と乗り越えるその行為に自分でも驚く。
それはもうただのヘンタイでしかなかった。
と言うかもう片方はジップロックに入れて机の中に保存してあるくらいだし。絵を描くためという言い訳がそこに通用すると思っていたのだとしたら、だいぶヤバいやつだと思う。
だから私はヤバいやつなのだった。
そんなことを考えていたせいでカイロを舐める自分の姿と、今の牧野の姿が、最悪の形で混ざってしまう。暖房のせいか緊張のせいか、わずかに汗ばんだその肌がいけないのだと思う。
そう思いたい。
あのとき感じた朧気な味なんてほとんど覚えていないけど。
私がやった行為は牧野の肌を直接舐めるのとそこまで変わらないはずだ。
そうした頭の中の光景が欲望と混ざりきる前に、私は自分のほっぺたを思いきり叩いた。
パァンッ!
と思いのほか大きな音が鳴って、ソファの上の牧野が、
「えっ!?」
と体を震わせていた。
「な、なに……?」
「あ、いや……」
煩悩を蹴散らすために……なんて言えるわけもなく言い訳を考える。
だけど言い訳に割くリソースが今の私の頭にあるわけもなく、
「気合いが欲しかった」
その場しのぎにもならないような言葉を口にしていたけど。
「えー……?」
案の定、牧野は不審げに私を見つめていたけど、
「まあ、いいけど」
最終的にそうと納得してくれる。
牧野も牧野で、それなりに私の操縦方法みたいなのがわかってきているのだろう。そうした互いの呼吸みたいなものを把握している相手は初めてだから、それが心地好くて仕方がない。