第9話 私は君を描く 02
私は視線が移った脚の先を観察する。
手と同様に磨きあげられた爪は艶々とした桃色をしていて、それ自体が尊い十個の宝飾品のようだった。他人の足先を見る機会なんてほとんどないし、ましてやそこに感想を抱いたことなんて一切なかった。しかし、牧野はその爪先ですら、一切の隙がないくらいに美しかった。
そこから視線をのぼらせると、上肢よりも肉づきのいい下肢へといきつく。
――普段から思ってはいたけど、脚が長いんだよな、こいつ。
私の下半身は『足』って感じだけど、牧野の下半身は『脚』って感じだった。
カモシカのような足という比喩があるけど、そんな表現を弄ぶことすら無粋に感じられる。だったらもう、この世に存在する綺麗な足はすべて『牧野のような脚』でいい気すらした。普段はスカートの内側へと隠れていく大腿が、今日は惜しげもなく空に晒されている。角度のせいでその付け根の部分は見えないが、丸みを帯びた臀部が、わずかにこちらがわでも見えた。
その代わり――というのもおかしな話だけど。
私の目には牧野の鼠径部がしっかりと映っていた。
逆三角形の頂点は肉づきのよい太股で隠れているが、そこから恥丘へのなだらかさに、自然と目がいく。恥骨を覆う茂みは、恐らく人工的に整えられているように私の目には見えた。
その部位に人為的に手が加えられているのだと思うと、なぜか息が苦しくなった。
それは胸の内側にゴムボールをねじこまれたような不可解な息苦しさだった。
その感覚から逃れたい一心で、ゆっくりと、腹部へと視線をあげていく。
ほっそりとした腹部は健康的なくびれを作り、どこかあどけないおヘソがアンバランスに見える。腹筋の形がわかる程度に引き締まった腹部を登ると、わずかに浮いた肋骨に辿り着く。
そしてその上には――私を再三悩ませてきた胸があった。
改めて『描くため』に牧野の胸を観察をする。
観察して思うことは『想像していたほどは大きくない』という点だった。
どうやら私は夢見がちな男子のように牧野の胸を現実以上に大きく見積もっていたらしい。
男子は女子の胸を見過ぎだと、ネットで話題になることがある。現実でも女子はそうした話題で盛りあがるのかもしれないが、友だちがいない私には、それが事実なのかわからない。制服の上から私の胸を観察しようと思うような酔狂な人間など、この世界には存在しないから。
だけど牧野の胸を見ていると、とある真理に行きついてしまう。それは、
――いや、これは、見るだろ。
という最悪の真理だったけど。
性差なんて関係なく、こんなものが視界にあれば、目で追うに決まっている。性別で括り、それを単なる性欲の対象のように扱うのは、なによりも牧野の立派な乳房に失礼だと思った。
それほどまでに乳房というやつは圧倒的な存在感を放つものなのだ。
――いや、御託はいいから今は観察だ。
頭蓋の内側を支配していた雑念を、頭を振ることで散らし、牧野の胸を注視する。
横たわった牧野の乳房が重なり、自重によってわずかにたわんでいる。
しかしこうして重力に身を任せている姿を見ると、柔らかさよりも、張りや瑞々しさのほうに目がいく。制服越しに顔を埋めたことはあるけど、それは『制服越しの感覚』でしかない。実際に生で触ってみたらどんな感触がするのか、私にはまったくもって想像もできなかった。
私の胸はわずかな膨らみがあるばかりで、房などと呼べる代物ではなかったから。
そしてなによりも蠱惑的だったのが、乳房の中心を陣取る薄茶色の乳首だった。
空に晒されているせいかピンと張り詰めた乳首が、柔らかな乳房の中で自己主張を続ける。
感覚的に言えばどう考えても『滑らか』なほうが美しいはずだ。
だから乳首なんて乳房の中にある異物に過ぎないはずなのに。
どうしてその突起が私の胸をこんなにも惹きつけてやまないのだろう。
その神秘的な吸引力をどう描くのかが、牧野を描く鍵になってくるような気がした。
ひとつひとつ、目を瞑っても思い浮かぶぐらい鮮明に、牧野の体を脳裏に焼きつけていく。そうやって牧野の体を描いていた私は『牧野が忙しかった理由』を、イヤでも察してしまう。
……毛の処理をしてたんだろうな。
昨日、頑なに脱ぐのを拒否していた理由も同じなのだろう。
牧野の肌は体毛の存在なんて感じさせないほどに滑らかだったけど、部分的に剃り残しと思われるものがあった。背中や脚の背面など、ひとりで処理するには絶対に限界があるから。
とは言ってもそれは、柔らかな産毛みたいなものだったけど。
私は自分の体毛の処理をしようなんて思ったこともないから、その必要性に、まったく考えが至らなかった。もしかしたら私自身、牧野には体毛なんて生えてこないと信じていたのかもしれないが。そう思っても仕方ないと考えてしまう程度に、牧野はなにより美しかったから。
だけどそうした前準備が、私にはとにかく嬉しく感じられた。
だって私のために――いや、私たちの芸術のために準備してくれたのだと思うから。
彼女の体がつい昨日まで体毛に覆われていたという事実も。
それを私のために処理してくれたのだという事実も。
すべてが嬉しくて、愛おしくて。
反面、そんなことを思う自分がなんだか気持ち悪かった。
そうと思ってもなお、私の心中には牧野への強過ぎる想いが沸き続けていたけど。
――牧野は芸術品なんかじゃないんだよな。
同時に、そんな当たり前の事実に、今さら思い当たっていた。
牧野の心はもちろん、その体にしたって、私と同じ高校一年生の未熟なそれなのだ。移ろいやすく、染まりやすい。油断をすれば、吹き出物だってできるし、贅肉にだって覆われる。
彼女がこうして美しさを保っていられるのは、偏にその努力がゆえなのだと思う。
――モデルに憧れてたって言ってたもんな。
容姿の割に自己評価が低すぎる彼女は、それを早々に諦めてしまっていたらしいけど。
自分では無理だと思うと同時に、心のどこかで、その夢を諦め切れなかったのだろう。
だから小さな努力を積み重ね続けていた。
いつ夢が向こうからやってきてもいいように。
それは子どもが抱く淡い夢でしかないが、そこに連なる努力は血が滲むものだったはずで。現実味を一切帯びていない夢にさえ直向きになれるその真摯さが、なによりも眩しかった。
そしてその積み重ねが、今の牧野を形作っている。
だけど、いや、だからこそ、
――牧野もただの人間なのだ。
そうと気づいた瞬間私は、指先を縛りあげていたものから解き放たれたような気がした。
牧野は綺麗だし、美しい。
だけどそこになんら特別なことなんてありやしない。
ただ誰よりも努力をして、それが結果として出ているだけ。
牧野の体にも毛は生えているし、シミだって存在する。
剃った際に傷をつけてしまったのか、太股には一筋の傷痕だってついている。
だけどそのすべてが私には綺麗に見えたのだ。
この世に存在するなによりも美しく見えたのである。
この想いがなんなのか気づくのに、そう時間はかからなかった。