第9話 私は君を描く 01
ソファに横たわった牧野を改めて観察する。
試行錯誤の末、大まかな構図や角度はすでに決まっている。
あとは実際にデッサンを始めるだけの段階だった。
「それじゃあ、描き始めるからな」
「うん。わかった」
最後にそんなやりとりをして、私は紙面に鉛筆を走らせ始めた。
それに応じるように牧野の体にグッと力が篭もるけど。
今さら緊張についてとやかく言う気はしなかったから、私は黙って牧野を観察していた。
――しつこいようだが、デッサンの基本は対象をよく観察することだ。
割合で言うのならば。
観察が九で。
実際に描くのが一だ。
移ろいやすい人間の意識は、それほど長いあいだ、ひとつの対象を見つめることなんて出来ないから。意識するならそれぐらい極端なぐらいがちょうどいいと、教本には書いてあった。
だけど今、私が描いているのは、私がこの世でもっとも美しいと感じる存在だったから。
いくら観察してみたところで、飽きることなんて有り得なかった。
まずは全体の大まかな形や奥行き、立体感を掴んでから、細部を描きこむことにする。
牧野の横たわっているソファや、その質感を捉える。
主体である牧野を際立たせるために周囲は暈かすことも考えたが、牧野はそんなことで霞むようなひ弱な被写体ではない。だから全体のバランスを整えながら、背景も緻密に描きこんでいく。写真記憶に長けている私は、全体をひとつのものとして捉えるのが得意なのだと思う。
だから風景や建物を描くのが昔から好きだった。
その能力を活かして先に周囲から仕上げていき、最後に牧野と向き合うことにする。
ソファに横たわる牧野は、これまでに何度も観察してきた。
だけど裸になった牧野と相対するのは、今日が初めてだ。
予想していたとおり、牧野の体は神様が気まぐれに作った彫像のように美しく、彼女の肉体がそこにあるだけで、ありとあらゆる凡庸な風景が、ある種の芸術に昇華されうる気がした。
それはこの雑然とした美術準備室と古めかしいソファにしても一緒で。
私にはここが、たとえばシャーヒズィンダ廟群であるとか、ブルーモスクであるとか、聖ヨハネ大聖堂であるとか、そうした芸術的な価値のある空間と同列のように感じられていた。
だから私はいろいろな服装や場所で、牧野のことを描いてみたいと思った。
有名な場所である必要も、綺麗な服を纏う必要もない。
なんでもないような場所で、普段着を纏っている彼女こそが、もっとも美しいはずだから。
それこそが私の求めている芸術だと、強く強く、そう思ったから。
そのためには今この瞬間の牧野と全力で向き合い、その美しさを表現しなければいけない。
だから私は何十分、何時間でも牧野のことを観察する。
黒絹のように鮮やかな光沢を持つ髪の毛。
ちらりと覗く可愛らしいおでこと、その下にそびえるどこか憂いを帯びた瞳。長い睫毛がまばたきと共に大きく揺れ動き、かすかに湿っているのか、その先端が砂糖菓子のように輝いていた。スッと伸びる鼻梁に小さな鼻腔、あんな小さな穴で呼吸ができるのか? なんて奇妙な心配をしてしまう。ぷっくりとした唇は健康的な赤色をしていて、見ていると食べ物を与えたくなる。そこからスッと伸びる細い首は、それで頭部をささえられるのか心配になるほどで。だけど牧野は頭にしても顔にしてもこぢんまりとしているから、無用な心配なのだろう。
――牧野は童顔のつもりだったんだけどな。
こうしてモデルに真摯として向き合ってる姿――単に緊張してるだけかもしれないが――を見ていると、やはり牧野は大人びて見える。そこいらの大人よりも、よっぽど大人っぽい。
――いや、完成してるから、そう見えるのかもな。
これ以上、手を加える余地がないから『大人びている』という感想を抱くのかもしれない。再三言っているが、牧野の容姿は『高校一年生であること』が信じられないくらいに美しい。ともあれ顔なんて今までだって何度も見てきたのだから、さっさとその下方へと視線を移す。
制服が脱ぎ払われ、剥きだしになった胴体へと。
ほどよく骨格の浮きでた肩から鎖骨にかけての流麗なライン。
首の筋から鎖骨のくぼみが、牧野の体系のバランスのよさを示している。
ピンと張り詰めた皮膚は若々しく、瑞々しい肌はその内側にエネルギーを秘めている。
ただ横たわっているだけなのに。
内側から漏れだし続けるその躍動感を表現するのは骨が折れそうだ。
肩から伸びる上腕は無駄なく引き締まっている。しかし私の体のような『痩せっぽっち』という印象は受けず、女性らしい柔らかさが保たれているのだから、魔法としか思えなかった。
丸みを帯びた肘は気怠げに折り曲がり、かすかに血管の浮いた前腕へと続く。
手首の突起やそれに続く手の甲の筋、かすかに握られた指先、慎ましく磨かれた桃色の爪。
そうしたフェチを持っているつもりはなかったが、関節を描写するたび、その部位に見惚れそうになる。今この瞬間、立体としてあまりに完成されている牧野が、常日頃『動いている』という事実に、改めて感動しているのかもしれない。彼女の気まぐれひとつで、すべての関節や骨――彼女の身体そのものが違った表情や趣を見せるのだと思うと、心臓が跳ねる。
その無限の可能性すべてを描写したい。
何枚、何十枚――何百枚でも、牧野のことを描きたいと思った。
そんな私の視線の先で、同じ姿勢を取り続けていたからか、牧野が体を軽く蠢かせる。
なんてことはないただの伸びに、私は息が詰まりそうになるほど見惚れていた。
「あ、ごめん。ちょっと痺れてきちゃって」
私の視線から非難の色を感じ取ったのか、牧野が慌てた調子で謝ってくる。
「ああ、いや。大丈夫。見惚れてただけだから」
「あ、えっ……? そう? ならいい……のかな……?」
間髪入れずに告げた私の言葉に、それはそれで戸惑っていたようだけど。牧野との会話は好きだけど、今は余計なノイズを入れたくはなかったし、言葉で感情を表現したくはなかった。
表現できるものはすべてこの紙面で表現したかったから。
それ以外の表現はすべて、この感情と衝動の無駄遣いだとしか思えなかった。
「問題なければそのまま続けるけど」
「うん。大丈夫」
そう告げると牧野は器用に、先程と同じ体勢を取ってみせる。
それが口で言うほど簡単なことではないことは私にもわかる。先ほど頭で描いたとおり、人間の体は『関節の数×可動域』という、途方もない可能性が秘められている。いや、この数式は絶対に間違っていて、本当はその何万倍もの数値になるはずだ。だからスッと『元の位置』に戻れてしまえることそれ自体が、彼女が真剣にモデルと向き合ってることを示していた。