第8話 君を描くのは私 03
「いつごろ開始する……?」
パックの水滴を指先でなぞりながら、怖ず怖ずと牧野が尋ねてくる。
その声は緊張で上擦っていて、パックに触れる指もまた、か細く震えていた。
「……なるべく早いほうがいいな」
ここで気を遣ったり嘘をついても仕方ないので、私は思ったことをそのまま伝える。
なにより日本には『案ずるより産むが易し』という諺もあるから。
実際、今のこの空気が一番キツいということも十二分に考えられた。
「……そしたら、もう脱いだほうがいいよね」
「できることなら」
私の言葉を飲みこんで、牧野はジッと沈黙する。
強張った沈黙が準備室に広がる。
私は大きすぎる心音を牧野に悟られてしまうのではないかと不安で、グッと体に力を篭めてしまう。確かに準備室は静かだったけど、それ以上に、空気が帯電したような居心地がした。
互いが身を縮めるように体を強張らせていることが原因のように思われた。
牧野がその空気を払拭するように吐息を漏らす。
「……じゃあ……脱ぐから、ちょっと、あっち向いてて欲しいな」
その声は緊張が極まり過ぎて、過剰気味に震えていたけど。
冷静ぶってそれを上から押さえつけようとしているせいで、その声は奇妙に固かった。
「わかった」
自分ではごく普通に返事ができたつもりだったけど、きっとその声も牧野と似たようなものだった。バカになった心臓が血を巡らせることを放棄したように、どこか貧血気味だった。チカチカと白む視線を引き摺るようにして、どうにか動かして窓の外を見やった。時刻はまだ四時前だというのに、陽はすでに傾き始めていて、西の空が哀愁に濡れているのが見えた。
続いてガチャンッと硬質な音が背後から響く。
それは鍵をしめるときの音で、その音が、私たちがこれからしようとしている行いが『他者の目に触れてはいけないもの』であることを示しているようで、なんだか妙に緊張してくる。
網膜を濡らす茜色に目を細めていると、背後から衣擦れの音が聞こえてきた。
普段、体育なんかのときに無数の衣擦れの音を聞いているはずなのに。
その音はなぜか異様に、私の心臓を高鳴らせた。
――さっきまでで充分に破裂しそうだったのに。
脈拍というものはこんなにも早くなるのかと自分の心臓に驚く。
今、牧野が私のためだけにその服を脱いでいるからだろうか。
脳の深い部分がそのまま脈打っているようにすら感じられて。
今まで感じたどの息苦しさとも違う独特の窒息感が私を襲っていた。
――どこまで脱いだのだろう。
音的にブラウスのボタンでも外していそうだ。
――と鮮明に牧野の脱衣を想像すると、口から心臓が飛びだしそうになる。これ以上、意識を妄想に割くと卒倒でもしてしまいそうだったから、私は買ってきたガラナを一気に呷る。
炭酸の爽快感とクセになるエグみが、舌から喉にかけてをバチバチと弾けさせる。
すべてを塗り潰してくれる刺激に感謝していると、一瞬でボトルが空になっていて驚く。
――えっ、こっわ。
喉なんてべつにそこまで乾いていなかったのに。炭酸飲料の刺激に感謝しているつもりが、その実、ここまで上の空になっていたのかと、空になったボトルを見て呆然とする。
相変わらず背後からは牧野が制服を脱ぐ音だけが聞こえてくる。
かすかな息遣いの向こう、遠くで吹奏楽部の練習音が聞こえてくるのがシュールだった。
どこか調子の外れた吹奏楽の練習音に意識を傾ける。だけどいくつもの壁を挟んだ向こうから聞こえてくるその音は、どう足掻いても不出来過ぎる環境音にしか成りえなかったけど。
「いいよ」
「お、おう」
そんな状況だったから、牧野からそう告げられたとき、私はすでに満身創痍になっていた。たかが準備段階でこんなに精神が疲弊するとは思ってもみなかったから、徒労感が凄まじい。
「……見ないの?」
返事をしてなお一向に動きだす気配を見せない私に牧野が焦れたように尋ねる。その声はふて腐れたような色を帯びていたが、そうと尋ねる牧野が裸なのだと思うと、頭が漂白される。
「いや、見るけど、こっちにも心の準備が……」
心の準備をする時間なんていくらでもあったはずなのに。
いざ『いいよ』と言われてみると、なんの準備も整っていなかったことがわかる。そりゃあ、私はなるべく『牧野の裸』について考えないようにしていたのだから、それも当然だろう。
「できれば、あんまり待たせないで欲しいんだけど」
しかしそんな私に対して、牧野は容赦なく告げる。
「……あと十秒以内ね。十、九、八、七、六――」
「わ、わかったよ!」
振り返るのが遅かったからなんて理由でお流れになってしまっては、ギャグにもならない。だから私は牧野の無慈悲なカウントダウンを遮って、なるだけ大きな声を準備室に響かせた。
それは自らの声で私を支配していた感情を蹴散らしたかったから。
大声の効果はほとんどなかったけど、勢いだけはついてくれたようだった。
「……振り向くぞ」
「うん。いつでも」
先ほどまで牧野も私と似たような有様だったはずなのに。
向こうはすでに覚悟が決まっているのか、その声は一周回って落ち着いたものだった。だったらこれ以上の確認は無用かと、私は意を決して振り返った。そこで待っていた牧野は――
「えっ……いや、裸じゃねーじゃん」
――体の前面部を、お気に入りのスヌーピーのタオルで隠していたのだった。
私の言い分に牧野は、
「裸だよ!」
と叫んでいたけれど。
それが裸にあたるかは意見が分かれそうなところだった。
牧野はグッとタオルの一端を握りしめ、その拳を自らの鎖骨に押しつけるようにしている。
ただ、その体が隠れているからと言って、私が安心したのかと言えばそんなわけがない。
むしろその姿は裸よりも私の心を擽った。
タオルケットとは言っても膝掛けのようなサイズのものだから、隠れているのは胸から太股にかけての一部分だけだった。それがかえってチラリズムを刺激しているようでならない。
だけど女の体なんて、これまで飽き飽きするほど見てきてる。
――いや、まあ、自分の体なんだけど。
それでも私が女であることは、私が一番よくわかっている。
しかし牧野の体は私の体とはなにからなにまで異なっていた。
タオルの陰から伸びる四肢は細くしなやかなのに、ほどよく肉がついていて柔らかさを保っている。瑞々しい肌は未踏の白色で、触れることはおろか視線を向けることすら躊躇わせる。
未熟さを感じさせると同時に、今の牧野がもっとも美しいのだと確信させられる。
牧野と初めて対面したときのあの感覚が、より強烈になって蘇っていた。
まだ十代の牧野の体は最終調整の段階を残しているはずなのに。
――そして問題だったのは。
そんな大人と子どもの中間というある種独特な美しさを帯びている彼女が、キャラ物のタオルでその肉体を覆い隠しているということだった。どこか眠たげな顔をしたスヌーピーが座っているそのイラストは、よくも悪くも子どもっぽく、それが逆に牧野を扇情的に見せていた。
先ほど「さみしがりやとめんどくさがり」という百合短編小説を投稿しました。
大学生同士の少しどろっとした感情のお話です。
よろしければそちらもチェックしていただけると嬉しいです。




