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第8話 君を描くのは私 02




 あまりにも普段どおりの一日を過ごし、私は先になって美術準備室を訪れていた。

 牧野は掃除当番があるとかで、それを終わらせてからくるらしい。


 そのあいだに私は牧野を描く準備を進めておくことにした。


 とは言っても、行えるのは鉛筆によるデッサンだろうから、たいした準備もない。できることならデカデカとしたキャンバスに油絵で牧野を描いてしまいたかったが、それは牧野も許しはしないだろう。だから私ができる準備と言えば、スケッチブックに鉛筆、練り消しといった基本的な道具を揃えておくことぐらいだった。だすものをだしてしまったあとは手持ち無沙汰に陥ってしまい、わけもなくカッターで鉛筆の先を尖らせたり、練り消しを弄んだりする。


 その合間を縫うようにして、何度も何度もスマホで時刻を確認する。小一時間は待ったつもりなのに、一〇分程度しかたっていなくて驚く――というのを何度も何度も繰り返していた。


 そのあとも似たような調子で、私は狭苦しい準備室を、あてもなく彷徨ったりする。


 ……まさか心変わりしたとかないよな。


 牧野が遅いのではなく私の落ち着きがなさすぎるんだけど。

 そんなことまで考えてしまう。


 牧野は昨日、『そんなにしつこく確認されたら気が変わりそうになる』という旨の発言をしていた。ならば今日一日、改めて考えたことで気が変わったという可能性も多いに有り得るような気がした。こんなことなら昨日の時点で無理やり脱がせておくべきだったかもしれない。


 ……まあ、今は牧野を信じるしかないか。


 スマホを確認しても牧野からの連絡はないし、時間は先ほどの確認から五分しかたっていない。こんな狭苦しい場所にいるから息が詰まるのかもと思い、飲み物でも買いに、一旦廊下にでてみることにした。歩いたり、他の生徒の姿を見ていれば、多少は気も紛れるだろうから。


 そう思って引き戸の取っ手を掴んだ瞬間、凄い勢いでドアが開かれ、体勢を崩してしまう。


「うわっ!」


 という驚きの声の向こうで「あっ」と困惑の声が聞こえた。私はそのまま、つんのめるようにして倒れ、ドアの向こうに立っていたやつの胸元に、顔を埋めるような形になってしまう。


 しかし顔から倒れたにも関わらず、たいした衝撃も訪れない。


 それどころか私の顔面をエアバッグのように包みこむなにかがあった。馴染みがある――と言ってしまったらおかしいけれど、その柔らかさは私の記憶に深く刻みこまれたものだった。


「……牧野か」

「どうして顔もまったく見てないのに私だってわかったの?」


 私の頭頂部に戸惑いとも怒りともつかない、なんとも形容しがたい声が当たる。だけどそれ以上にそこに含まれた吐息が私の頭皮を湿らせたような気がして、心臓が妙な跳ね方をした。


「えっ――」


 ――そりゃあお前、制服越しなのにこんなに柔らかいのはお前ぐらいだろ。


 アホな頭が煩悩丸だしのことを考えるけど、さすがに理性がその発言を喉元で堰きとめた。


「……声だよ声」


『あっ』だのなんだの言ってただろと、私はそれらしい言い訳をする。


 牧野の反応は「ふうん」だった。

 どういう感情だ? とそこから牧野の想いを推し量ろうとするんだけど、それより早く、


「……そんな所で喋られるの恥ずかしいから、そろそろどけて欲しいんだけど」


 牧野が不満そうな声でそう告げてきた。

 完全に脳機能が停止していたせいで、牧野の胸に顔を埋めっぱなしになっていたのだ。


「あ、わ、悪い」


 と謝りながら慌てて牧野から飛び退く。

 キュッ……と上靴のゴム底が床と擦れる音を聞いて、牧野が笑う。


 相変わらず笑顔の基準値が低すぎる気がしたけど、機嫌が直ってくれたならそれでいい。


「どっか行くところだった?」

「あ、いや……飲み物でも買ってこようかなって」

「あ、そうなんだ」


 飛び退いたあとの微妙な距離感をそのまま体現したような探り探りの会話だった。牧野の表情からもすでに笑みは消えていて、緊張に強張ったような顔で、私のことを見つめていた。


「……行かないの?」


 それから牧野は焦れたようにそう尋ねてくる。


「あー……行ってくるかな」


 牧野がきてくれたなら廊下にでる理由もなくなっていたんだけど、気持ちを切り替えないことには絵を描くモードにもなれなさそうだったから、私は牧野と入れ替わりに廊下へでる。


「牧野はどうする?」

「んー……心の準備したいから、ここで待ってるかな」

「それもそうだな。わかった」


 たぶん一緒に廊下にでたところで私たちは気軽な会話なんて行えないだろう。たとえ自販機への往復分だとしても、沈黙で歩き続けるのはキツそうだったから、そのほうが都合がいい。


「あっ、でも飲み物は欲しいかも。紙パックのココアがいいな」

「ん、わかった」


 自分の目当てのものだけなら最寄りの自販機で事足りたが、牧野の所望しているココアは一階の購買脇にしか置いていない。距離はあるが、それぐらいの歩かなければ頭も冷えそうになかった。実際、自販機でココアとガラナを買ってきてなお、私の頭は脈打ち続けていたし。


「あ、おかえり」


 ソファで待っていた牧野にそう告げられ、なんだかむずむずしてくる。


「ただいま」


 と声にだせはしたものの、そのむず痒い気恥ずかしさに、なんとも言えない気持ちになる。


 おかえりにただいま。


 たったそれだけの挨拶にどうして私の心はこんなに突き動かされているのだろう。


「ほら、ココア」


 牧野に投げ渡すと彼女は「ありが、あわわっ」なんて言いながら紙パックを取り落とした。ころころと転がる茶色い長方形をふたりで目で追い、牧野は苦笑と共にそれを拾いあげた。


 しかし彼女はそれを開封することなく、そのままソファの脇に置いてしまう。

 パックがわずかにかいていた汗が、ソファの生地を濡らすのが見えた。




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