第8話 君を描くのは私 01
その夜、私は当然のように眠れずにいた。
帰り道での思いのほか盛りあがった会話にしてもそうだけど。
あれはたぶん互いが互いの緊張をごまかすために、多弁になっていたのだと思う。
だけど結果としてあの会話たちが、私の緊張を助長しているのも確かで。
明日、自分があんな取り留めもない話をしていた相手の裸を描くのだと思うと、なんだか妙な心地がしていた。普段なら眠れないならさっさと入眠を諦めて、絵なりなんなり描き始めてしまうんだけど。今日という日にかぎっては半端な絵なんかで欲を満たしたくはなかったから布団の中で耐える。こうした滾るような欲はすべて明日のために取っておきたかった。
それがさいわいしたのか気づくと私は眠りに落ちていた。
夢すら見ないほどに、どこまでも深い眠りだった。
○
朝はそのまま教室へと向かい、淡々と授業をこなして過ごした。準備室に行くのは放課後になってからにしようという暗黙の了解があったから、昼休みも同様に教室で過ごしていた。
まあ、それはそれとして私の全意識は牧野のほうに注がれていたんだけど。
……やけに騒がしいな。なにやってんだ、あいつら。
牧野も牧野でさすがに落ち着かないのだろうか。
そう思ってグループのほうを見やると、なぜか金剛寺がせっせと宿題を行っていた。
「頑張れー!」
「頑張れって、応援してる暇があるならお前が自分で頑張れ! リムの宿題だろうが!」
と金剛寺の半ギレ気味の叫び声を聞いて、状況を少しだけ理解する。
……なにやってんだ、あいつら。
状況を理解してみたところで、私の抱いた感想は変わらなかったけど。
「私もやってるってばー」
と金剛寺に比べていささか緊張感に欠ける声で言いながら、牧野はチョコを食べていた。今日はmeijiのアーモンドチョコだけど、そのサイズは私の知ってるものの三倍ぐらいあった。
ゲームセンターの景品かなにかで並んでいそうなやつだ。
あんなものいったいどこで手に入れてくるのか。
この前気になって尋ねてみたんだけど、ニヤニヤしながら『企業秘密』と囁くだけだった。
「チョコ食ってんじゃねーか」
「もう、枇杷ったら。そこまで言うならご褒美をあげよう」
話の繋がらないアホなことを言いながら牧野は金剛寺の口にアーモンド型のチョコを入れる。拍子に金剛寺の唇に牧野の指先が触れたような、触れてないような気がしたが、遠くてよく見えない。べつになんてことのない光景であるはずなのに、わずかに胸が軋む心地がした。
「ご褒美って労働の対価にしてはあまりにショボすぎるだろ」
そんな私の気持ちをよそに、金剛寺はしっかりとチョコを飲みこんでからツッコんでいた。
「アーモンドだよ!?」
「そういう問題じゃねーよ」
しかし一連の流れにまったく滞りがなかったから、たぶんああした行為には全員が慣れているのだろう。牧野はそういうのあまり気にしなさそうだから手から直接食べさせたりしてそうだし、なんだったら箸から直接『あーん』とかもしてそうだった。自分がされている姿を想像すると心臓が破裂しそうになるが、金剛寺がされている姿を想像すると胸が萎みそうになる。
……なんだ、これ。
両極端に振り回された心臓が軋み、それに乗じて精神が悲鳴をあげる。
どうしてこんな症状群に振り回されるのかわからず私はそっと頭を振った。
「と言うかまったく手つけてないとか珍しいじゃん」
「えっ、チョコ? ちゃんと食べてるよ」
「ちげーよ。宿題の話に決まってるじゃん」
折良く金剛寺が牧野に話題を振っていたので、縋りつくように耳を傾けることにした。
……と言うか牧野のやつ、意外と宿題はちゃんとやってんのか。
昨日の会話とか普段の立ち振る舞いを考えるに、宿題なんて絶対にやらなそうなのに。
「普段は申し訳程度に『やってみたけどできなかった感』だしてくるのに」
なんて牧野のことをほんの少し見直しそうになっていたところで、金剛寺が真実を告げた。
……なんだそれ。
小学生並の悪知恵だった。
しかもよくよく考えたら『宿題をちゃんとやってきてる』ぐらいのことで見直すとか、私も大概だ。どうやら私は知らず知らずのうちに、だいぶ牧野に毒されてしまっているらしい。
「私の頑張りをそんなふうに見てたの!?」
金剛寺の辛辣な指摘を受けた牧野はと言えば、そんなふうにして声を荒げていた。無駄に通りのいいその声は教室中に響き渡っていたものの、周囲のクラスメイトは気にも留めない。そうしたクラスの反応は、牧野のやたらと大きな声が日常風景に過ぎないことを示していた。
「で、なんかあったのか?」
一番近くで牧野の大声を受けていた金剛寺が、なんでもないような顔で尋ねる。
「あー、いや……昨日は忙しくて……」
すると牧野は困ったような顔で口をもごもごと動かしていた。
「ん? なんかやってたのか?」
その反応が露骨に不審だったからか金剛寺は眉をひそめながら深追いする。
……そろそろ視線を彷徨わせるぞ。
と思っていた矢先に、案の定、牧野の視線が教室をひとり歩きし始める。子どもみたいな落ち着きのなさで教室を歩いていた視線が最終的に行きついたのは――なぜか私の元だった。
……私がどうかしたのか?
と私まで不審に感じ始めた次の瞬間、牧野の顔が花火でも咲いたように赤く染まった。
――リンゴちゃんだ。
赤々と熟れたリンゴみたいなその顔を見て、かつての牧野のあだ名を思いだしてしまう。
「……………………宿題」
そんなリンゴちゃんはと言えば、赤ら顔に似つかわしくない、平凡な回答を口にしていた。表情と回答の乖離があまりにも激しすぎたせいか、金剛寺もヘタにつつけないでいるようだ。
「モデルの用事でもあったんじゃないの?」
と見かねたらしい『中』がそれらしい助け船をだす。さすがにグループのふたりにはモデルの話もしていたのだろう。それなら、それらしい嘘も乗せられるだろうし、実際、彼女の忙しさの原因はそこかもしれない。まあ、どうとでも言い訳できるだろうと見守っていると、
「なんで知ってるの!?」
牧野はこの世の終わりを目撃したような顔をしていた。
それに合わせて顔面が蒼白になる。
まっ赤になったり、まっ白になったり、秋の天気みたいに忙しない顔色だった。
……えっ、と言うかファッションモデルのこと、話してないのか?
だったら『中』の発言はなんだったんだ? と私まで背筋が震えそうになる。
しかし私や牧野と同じぐらい『中』もまた困惑した表情を浮かべていた。
「えっ、いや、普通に話してくれたじゃないの。モデル、スカウトされたんだって」
「……………………」
「……………………」
その言葉を受けて、なぜか教室にいた全員が沈黙したような気がした。実際はそんなことなんてまったくなくて、私が三人の会話に集中し過ぎていたことが原因だったんだろうけど。
あからさまな沈黙の後、牧野が『ハッ!』と目と口を丸くして、
「そっちか!」
相変わらずの大声で、そんな言葉を叫んでいた。
……あいつ、私の話と勘違いしてたのか。
だけどその言葉で納得できるのは事情を知ってる私だけで、
「「どっち……?」」
金剛寺と『中』は顔を見合わせて、小首を傾げることしかできないようだった。
そんな感じで、取り留めのなさ過ぎる昼休みはあっという間に流れていった。
牧野にとってはそのあとの言い訳からが本番だったようだけど。




