第7話 君のやりたいこと 03
今日は絵を描けないと言うのであれば、これ以上、準備室に居座っている理由もない。だから私はさっさと帰り支度を済ませることにして、牧野と一緒に途中まで帰ることにした。
十一月に入った札幌は、いつ雪が降ってもおかしくないほど肌寒い。
陽はとっくの昔に沈んでいて、昇降口から外にでると、しっとりとした宵闇が私たちを包んだ。自転車通学だという牧野と一緒に、薄暗い校舎を迂回して、自転車置き場へと向かう。
牧野の自転車はミントグリーンの爽やかなママチャリで彼女によく似合っていた。
彼女は寒そうな素手で鍵を外して、小走りで私の横に並んだ。
横に並ぶのを見届けてから、私もまたのろのろと歩き始める。
「一緒に帰るの初めてだね」
校門を抜けるとほぼ同時に牧野は呟く。
その視線はどこか空々しく宙を彷徨い、私もまた気恥ずかしさに駆られて視線を逸らす。
「まあ、そうな」
そのせいか私の同意もまた、どこか調子が外れていた。
今までの会話から家の方角がおおよそ同じなのは知っていたけど。
それでも牧野は自転車通学で、私はバス通学だ。
一緒に帰るには私がバスを諦めて、なおかつ牧野が自転車を手押ししないといけない。私は帰りが何時になろうと叱られやしないから構わなかったけど、わざわざ牧野に『一緒に帰らないか?』と提案するのも気が退けたから。なにより私なんかが一緒に帰ったところで面白い話ひとつできない。そもそも『だれかと一緒に帰ること』にいい記憶なんてひとつもないのだ。
そのせいか一緒に帰るという発想自体、私の中にはなかったのである。
だけど今回は牧野のほうからバス停に着くより先に、
「途中まで一緒に帰らない?」
と誘ってくれたので、それに乗っかった。
牧野の自転車は車輪の部分になにかが引っかかっているのか、一回転するたびにカラン、カラン、と金属同士が擦れ合う小気味いい音が響く。今はその程度で済んでいるけど、本気で漕いだりしたら喧しいことこの上ないだろう。なんだかその喧しさが、牧野自身のようだった。
「寒いね」
「そうな」
と軽い相づちを打ちながら、牧野の姿を改めて眺める。牧野が身につけているものと言えば、季節の隙間に羽織るような薄手のコートだけで、防寒具らしい防寒具もつけていない。ほとんど冬に片足を突っこんでいる今日という日にかぎっては、見ているだけで肌寒くなってくる。
「自転車だと余計に寒いだろ。マフラーとか手袋は?」
「忘れてきちゃった」
「おいおい」
こんな寒いのに忘れるなんて有り得るか? と思うけど、どこに忘れたのかも聞いてない。試しに「どこに?」と尋ねてみると、答えは「どっかに」だった。やっぱり牧野らしい。牧野なら学校からファミレス、電車の中というありとあらゆる場所で手袋をなくしそうだから。
「真辺は?」
そんなことを考えていた私に、不明瞭な問が飛んでくる。
「ん? なにが」
「手袋とか」
そこまで言われて初めて、私は「ああ」と得心する。
牧野の視線は剥きだしのまま所在なげにしている私の素手に向けられていた。
「私、苦手なんだよな、手袋とか。指の隙間とか付け根になんか挟まってるのって気持ち悪いんだよ。似たような理由で靴下も苦手だし、マフラーも当然ダメ。腕時計とかも苦手だな」
たぶん拘束めいたものが苦手なのだと思う。
SF映画とかにでてくる宇宙服とか、見ているだけで具合が悪くなってくるぐらいだから。なんて考えて、口にだそうとしたところで、こんな話、だれが得をするんだと我に返った。
「……なんかよくわかんない自分語りしちまったな」
「ううん。そういうの、もっと聞きたい」
「なんじゃそりゃ」
と苦笑交じりに返しながら、言われるがまま似たような話を考えてみる。
「……聞きたいって言われるとでてこないな」
しかしこちらから探そうとすると見つからないのがこの手の話の鉄則だった。
「なにそれ」
牧野が私よりも楽しげに笑いながらそう呟く。そういうもんなんだよ、なんて言いながら、私も笑う。しんと静まり帰った空気は湖畔のように湿っていて、そこに私たちの笑い声が波紋となって広がり、染みこんでいく。夜空に溶けていく笑い声が、星を震わせる様を想像した。
「手、冷たいね」
「そうな」
どちらともなくグー、パーと悴んだ手を動かす。
芯の部分が凍りついてしまったような独特の感覚はあまり嫌いではない。普段はあまり望まない温もりが、このときだけは魂が欲するからかもしれない。本能による希求が面白い。
なにより悴んだ手をお湯で洗うときの解凍でもされているような感覚が好きだったから。
「ねえ」
「なあ」
何度目かのグーパーのあと、私たちの声が重なる。
なんとも言えない気恥ずかしさと、そこに覆い被さる心地好さに、表情が綻ぶのがわかる。
私たちは互いに「どうしたの?」「なんだよ」という問いかけをも被せてから、最終的に私が先に口を開くことになった。牧野が意外な強情さで、私に先を譲ったことが原因だった。
「いや、カイロ、持ってないのかなって」
「えっ、いや、今日は持ってー……ない……な」
自分の記憶を掘り返そうとしているからか、牧野の言葉はどこか手探りめいていた。
「こういうときのためのカイロだろ」
罪悪感のせいか、あからさまに視線を逸らす牧野にそう告げる。
牧野は「うう……」と唸るばかりで、なにも言い返してはこなかった。
「そっちは?」
「えっ?」
今度は私の問が不明瞭だったのか、問の意味を探るように、牧野がちらっと私を見やる。
「いや、なに言いかけたのかなって」
「ああ」
と気のない返事をしながら、牧野はサッと視線を逸らす。つられてそちらを見やると、よくわからないコインランドリーがあった。入り口の電灯が切れかけていて、なんとも辛気臭い。
「指の隙間に挟まってるの、落ち着かないって言ってたよね」
その電灯ぐらい薄暗い声をもごもごさせながら牧野は言う。
「そうな。それがどうかしたのか?」
「あー……いや、指なら、どうなのかなって思って」
「指ならどうって……ピンポイントで指が不快だって話をしてたんだろうが」
私の話、聞いてなかったのか? と尋ねると牧野は慌てる。
「あっ! いや! ちがくて!」
と言いながら普段アタフタしたときと同じように牧野は諸手を振り始めた。
当然、ささえを失った自転車は横倒しとなり、大仰な音で静寂を引き裂いた。
「……気をつけろよ」
こういうことを普段から繰り返してるんだろうなと、なんとなく予想する。
そのせいで車輪かフレームが歪んで、カラカラと喧しい音を立てているのだろう。
「あ、うん。ごめん」
いそいそと自転車を起こしながら、牧野は弱ったような顔をする。
「……で、指がどうしたって」
「あ、うん。真辺じゃなくて、私の指の話」
「……それこそ自分の胸に手を当てて、聞いてみろよ」
どうして私が牧野の性癖を知ってるんだよとツッコミを入れると、
「そうじゃなくて!」
なぜか牧野が唐突に憤った。
それは完全に暴発と言った調子だったけど、隣を歩いていた私は普通に驚いてしまう。そんな私を慮っている余裕もないのか、暴発した調子を無理やり元に戻しながら言葉を続けた。
「手、繋ぐのとかもイヤなのかなって」