第6話 私のやりたいこと 04
匂いは五感の中でもっとも記憶と結びつきやすい感覚なのだという。それが原因なのかまではわからないが、私はこのソファで眠るたびに、彼女の夢を見ているような気がした。不思議なことに夢の中では、牧野のほうがソファに横たわって、寝息を立てていたんだけど。
私たちにとってはその構図がなによりも自然だったから。
そこに違和感を覚えるようなことはなかった。
――綺麗だ。
と心が反射的に思う。
その感覚は彼女を初めて見たときに抱いた強い衝動と同じものだった。
だから私は無意識のうちにスケッチブックへと手を伸ばしながら思う。
ああ、これは美術準備室で牧野と出会った日の記憶なのかな、と。
記憶を参考にした夢をなかば現実の意識を持った私が動いていた。
しかしたとえ夢の中であっても私の手は牧野のを描ききってはくれない。
それでもなお私の中から『牧野を描きたい』という衝動はなくならない。
夢の衝動と現実の諦観が私の中で奇妙に混ざり合うのがわかる。
その結果――私の中でボンッ! と化学反応が起きた。
安っぽい効果音と共に強い衝動が湧き起こる。
――最初に牧野のことを見つけたのは私だ。
プロのカメラマンがなんだって言うんだ。
私はいったいなにを弱気になっていたんだ。
カメラマンにとっても、スカウトにとっても、牧野はこの世に数多と溢れかえる商品のうちのひとつでしかない。だけど私にとって牧野は、この世界で最上の美しさに他ならない。
そんなやつらに私が表現力で劣るわけがなかった。
――だから牧野を最初に描くのは、私じゃなくちゃダメなんだ!
心の叫びに突き動かされて、私は夢から――そしてソファから跳び起きる。
ドクンッ。
ドクンッ。
ドクンッ。
といつの日かと同じように、心臓の音しか聞こえない。
その心音の大きさがそのまま想いの強さを表していた。
勢いをそのままに私は不慣れなスマホを使って牧野へと電話をかけた。
一コール、ニコール、三コール。
発信音が一回鳴るまでに私の心臓は破裂寸前まで高鳴る。
私の心臓が合計十四回鳴り響いたところで通話が繋がる。
彼女の声が聞こえた瞬間、今まで以上に大きく、心音が高鳴るのがわかった。
「もしもし。私、真辺だけど」
「うん。名前でてくるからわかるよ」
スマホに慣れていなさすぎる私に牧野が苦笑と共に告げる。
「あ、そ、そっか」
「それで、どうしたの? 急に」
軽い羞恥のせいで一瞬言葉に詰まってしまった私を急かすように牧野が言う。
……忙しいのかな。
牧野にしては珍しい、どこか余裕のない声に、心臓が萎みそうになるのがわかる。
彼女は基本的にいつだって優しく私のことを受けとめてくれていたから。
しかしこんなことで怯んでいる場合ではないと先ほど夢で取り戻した想いを心臓に焼べる。
「牧野のことを描きたいなって思って」
「……急だね」
先ほどはどこか慌てたように。
今度はどこか声をひそめるようにしてそう囁いた。
まるで今、こうして話している牧野が、今まで私が触れ合ってきた牧野とは別人のように感じられる。あの屈託のない表情が目の前にないせいか、怒っているようにすら感じられる。
「それから……ちょっとしたお願いがあるんだ。それも含めて、明日話したい」
会話を長引かせて得になることなんてなにひとつない。
そう判断した私はひと思いに牧野へとそう告げてしまう。そうとまっすぐに告げられたのは、牧野なら私の誘いを断らないだろうという確信があったからなのだと思う。だからこそ、
「それはちょっと厳しいかな」
牧野がそう答えたとき、頭から血の気が引いた。
視界が漂白されて、そのまま体が崩れ落ちそうになる。
……いや、まだ明日が厳しいって言われただけだ。
そう思って「じゃ、じゃあ、明後日は……」と振り絞った私の言葉を、
「明後日も厳しいと思う」
牧野はきっぱりと切り捨てたのだった。
明日、明後日と誘いを断った牧野に『じゃあ三日後は』と追い縋る気力はなかった。失った血の気をどうにかしようと肺が躍起になっているようで、器官が壊れたように震えていた。
「そ、そっか」
なんとかそれだけ呟いて、呼吸を整える。
――自業自得だ。
と私の心の中でだれかが囁いた気がした。
牧野を描くチャンスはいくらでもあった。
それを『今はまだそのときじゃない』と言い訳をして無為にしていたのは他ならぬ私だ。もともと牧野が準備室に通っていたのだってほんの気まぐれで、私はそれを永遠だと錯覚した。
それを活かしきれなかった私があまりにも愚かだったのだ。ファッションモデルになるという目標を叶え、やるべきことができた彼女は、今後の生活においてそれを優先するのだろう。
私は惨めたらしく彼女が手を差し伸べてくれる瞬間を待つしかないのだ。
「わかった。ファッションモデル、頑張れよ」
これ以上、会話を続ける気力もなかった私は、なんとかそれだけを呟いた。
牧野が返事をしようと口を開くのがわかる。
だけど彼女の仄暗い声を聞くのもつらかったから。
大人げないとわかっていながら、私は一方的に通話を切った。
「あっ、ちょっ!」




