第6話 私のやりたいこと 01
「今日は放課後、ここ、こられないかも」
と牧野が告げたのは、昼休みの美術準備室でのことだった。
その顔は私を気遣うように仄暗く、同時に慈愛に満ちているように感じられた。だから、
……そうか。今日はこられないんだな。
と納得しかけたんだけど、その宣言がおかしいことにはすぐに気づいた。
「いや、べつに強制じゃないんだから、事前にそんな申請する必要ないだろ」
私は絵を描くこと以外やることがないから、毎日のように美術準備室に通ってるけど、用事があれば勝手に休むだろうし、そのたび牧野に対してその事実を告げたりはしないだろう。
つれない私の言葉に牧野は「えー!」と、いつもの難色を示していたけど。べつに申請するのは構わないけど、それが義務かなにかのようになるのはどうにも息苦しくてイヤだった。
「でも真辺、私がこなかったら『どうしてこないんだろう?』とか『事故にでも遭ったんじゃないかな?』とか『警察に連絡したほうがいいかも』とか心配しちゃうかもしれないじゃん」
「そんなわけ……」
……ないだろ。
と言いきれなかったのは、その言葉が図星だったからだ。
いつの間にか私にとって『牧野が準備室にいること』は当たり前になっていたようだから。もしも牧野が私に無断で準備室にこなかったりしたら、私はきっと相応に慌てていただろう。
「……牧野はアホだからそれぐらいの心配はしちまいそうだな」
だけどそれをそのまま告げられるわけもなく、私の言葉は口にでるまでの過程で屈折した。それもまた私の本心ではあったから。これなら牧野も反応に困るだろうと思ってたんだけど、
「ほらー!」
なぜか牧野はドンッ! と胸を張って偉ぶっていた。
なにがどう『ほら』なのかわからなかったけど、牧野が元気そうだったからよしとした。
「で、なんの用事?」
詮索するのも気持ち悪いか……? という疑念はあったけど。
気づくと私は牧野にそう問いかけていた。
話の流れに乗って綺麗に問を投げかけられたから、牧野も疑問に思わなかったらしい。
「ナイショ」
ただ牧野の回答は気に食わないものだったけど。そのせいで、
「あ?」
と不機嫌を丸出しにした声が漏れてしまう。
「えっ、なになに? そんなに気になっちゃうの?」
それを目敏く拾いあげて、牧野は私をからかうように言う。
気持ち悪がられなかっただけマシなのかもしれないが、これはこれで相応に気分が悪い。
「……彼氏か?」
だから私はかつて盗み聞きした金剛寺の返しをそのまま牧野に投げてみた。
まあ、少しでも怯んでくれれば儲け物ぐらいの気持ちだったんだけど、
「ちっ、ちちち、違う違う違う違う!」
牧野は諸手を振って『違うから!』と連呼する。このあいだと同じ過剰なまでの慌てぶりとわざとらしい否定のせいで『本当に彼氏なのか……?』と妙な勘繰りを抱いてしまう。
「な、なにさ、その目! 私、彼氏なんていないから! LINE見る!?」
「え、いや、見ないけど……なんだよ、その勢い……」
こえーよ。
と、本心をこぼしながら、同時に牧野の勢いに違和感を覚える。
……こないだ金剛寺につつかれてたときもそうだったな。
あのときも牧野は今みたいな過剰な反応をして、そのせいで私は牧野がこの部屋に男を連れこんでいるという妄想をしてしまったのだ。なんだったら、あのあと二回ぐらい悪夢で見た。
だけど痛いところを突かれないかぎり、こんな反応をしないのも確かだろう。
……もしかしてこいつ、恋愛は恥ずかしいとか思ってんのかな。
思春期に差しかかった子どもが異性であるとか、恋愛事に対して拒絶反応を示すことは珍しくない。牧野は子どもっぽいところがあるから、まだそれを引き摺っているのかもしれない。
「……べつに恋愛ぐらいするんじゃねーの」
だから私はフォローのつもりではないけど、そんな言葉を牧野に告げていた。
「えっ」
「いやだから、もし仮に、牧野に好きなやつとかいたとしても恥じる必要はないだろって話」
マジメに話しているつもりが私の声は次第に重たく傾いでいってしまう。と言うのも牧野の反応が
「ふーん」という相づちが示すように、どこか淡泊で、冷え切っていたから。
再三言っているとおり、牧野は綺麗だ。
綺麗すぎて、ともすれば近寄りがたい――なんて生温い言葉ではなく、不可侵の聖域とでも言うような独特な雰囲気が漂っている。それでも私が牧野と話せているのは、彼女の醸しだしている空気感が、それを打ち壊してしまうほど独特で、子どもじみているおかげだった。
だけど牧野が真剣な顔をするとその柔らかさが霧散する。
結果として私は体が凍りつくような居心地の悪さを感じてしまうのだった。
「まあ、そんなこと、私に言われずとも、わかってると思うけど」
聖域に足を踏み入れてしまったことを後悔しながら、私は言い訳がましくそう付けたす。
空気の重たさに引かれるように私の視線もまた床を這い蹲ろうとしていた。それなのに、
「真辺はどうなの?」
他ならぬ牧野がそれを許さず、私の視線を掬いあげる。
「えっ、あっ……なにが?」
体の強張りと同様に思考もまた、強張り始めていたところだったから。
牧野の言葉たらずな問いかけの意味を汲み取ることができない。
呆れられるんじゃないかと恐る恐る牧野を見やると彼女は真剣な目で私を見つめていた。
「恋愛、してるの?」
そして装飾もオブラートもない、飾り気のない抜き身めいた問を投げかけてきた。
しかしそうした真剣さとは裏腹に、牧野が発した問はあまりにもナンセンスなものだった。
「そんなわけないだろ」
だから私は牧野の問を一笑に付していた
「私は恋なんてしねーよ」
「えっ」
私が告げた一言に、しかし牧野は、困惑の滲んだ短音をこぼす。
牧野が私の言葉のどこに困惑したのかわからなかったがそのまま続ける。
「そもそも私みたいな社会不適合者を愛してくれる人間なんていないだろうから、私に選択権なんてないけどな。強いて言うなら私の恋人は美術だよ。私は絵を描き続けて死ぬんだから」
「そう……なの?」
私の回答がお気に召さなかったのか、牧野は納得がいかなそうな表情を浮かべていたけど。
「そうだよ」
彼女が納得いようがしまいが、それが私の人生の哲学だったから。
美術しか縋るものがなかった私と、恵まれたものを与えられている牧野。
そもそもそこに相互理解なんてものを求めるほうがどうかしているのかもしれない。
今はただ、牧野が気まぐれを起こして、準備室に通っているだけで。
私たちの繋がりは牧野の気が変わるだけで瓦解するような覚束ないものなのだから。
「だったらさ、もしも……」
それでもなお牧野は食いさがる。