第5話 私と君の居場所 03
「そ、それじゃあ、いただきます」
と、牧野の声がなにを湛えてかか細く震えている。
「いや、いただきますはおかしいだろ」
なにするつもりなんだよ、と最低限のツッコミは入れておくけど。
やたらと牧野の挙動が強張っているせいで、私のほうまで緊張してくる。
私を白衣の中に入れる直前になって牧野は一度足をとめて、逡巡の後に私の顔に手を伸ばしてきた。まるで洋画の登場人物たちが、最愛の相手の顔に触れるときのような、慈しみの色がそこにはあった――ような気がしたけど、単に静電気のチェックをしてるだけだった。
それで安全確認が済んだのだろう。
牧野は「よしっ」と満足気に頷くと、
「がばーっ!」
例のアホ丸出しな効果音と共に、白衣の内側へと私を飲みこんだ。
それから牧野は私の体を抱きしめるようにして白衣を閉じる。
――なんだこれ。
牧野の言い分は『もうひとりぐらいなら入れそう』というものだったから、てっきり変則的な二人羽織のような形になるものだと思っていたら、私の顔は牧野の体のほうを向いていた。そんな状態で白衣を閉じられたものだから、真正面から抱き合うような形になっていた。静電気を恐れてか、牧野も思いきりは抱きしめてこなかったけど。それどころか、その体がか細く震えてることに、互いの体が触れ合っている状態だから気づいてしまう。それが脅えに起因する震えなのはなんとなくわかるけど、これがそこまでしてやる価値のある行為には思えない。
だけどそんな冷静ぶった思考も、すぐに心音に塗り潰されていった。
……これ、ヤバいだろ。
普通に抱き合うだけでもヤバいのに、今私は牧野の服の中にいるのと同義なのだ。換気なんて健康的な概念が存在しないその空間は、牧野の体臭が停滞していて、体温までもが篭もっていた。それに加えて私を中に入れているせいか、牧野の体温が次第にあがり始めていた。
結果として牧野の中はサウナみたいな有様に成り果てていたのである。
だけどまあ、今までのは前座みたいなもので。
それ以上に問題だったのは、顔に触れている部位――牧野の胸だった。
いっそ思いきり抱きしめるか、体が触れるか触れないかという微妙なラインで留めておいてくれればいいのに。中途半端に体が密着しているせいで、胸の柔らかさをありありと感じる。 ブレザー、カーディガン、ブラウス、スポブラ。
といういくつもの障壁を隔てているはずなのに。
それでもなお私の顔面は牧野の体の柔らかさを、これ以上とないほど感じ取っていた。堅苦しい制服を隔てている時点で柔らかさなんてほとんど消失しているはずなんだから、私がこの瞬間感じているこの柔らかさはすべて、私の頭が生みだした妄想なのかもしれなかったけど。
そんな幻の感覚にアタフタしている時点で、私はかなり出来上がっているのかもしれない。
「あー……そろそろ、いいか?」
これ以上、牧野の中にいると二度と戻ってこられなくなりそうだったから。
私は恐る恐る牧野にそう尋ねたんだけど、
「あっ、間違えた」
私の問に牧野はよくわからない回答を口にした。
「はあ? いや、確かにこの状況が間違いだってのは――」
「ひとの胸元で喋らないで!」
「あ、すみません」
私が悪いのか……? と疑問になるけど、怒られると勢いで謝ってしまう。
熱やら匂いやら柔らかさのせいで、抵抗する気も起きなかった。
「逆だった。ねえ、真辺。あっち向いて」
逆とはいったい……?
そもそもそこを間違えるようなことが有り得るか……?
とさまざまな疑問――と言うか疑念が頭の中を行き交う。
だけど牧野の白衣の中で理路整然と頭を働かせる余裕もなかった。
「……わかったよ」
方向転換させるなら一旦この拘束を解いてくれと思ったけど牧野は一向に私を放そうとしないので、仕方なく白衣の中で回れ右しようとする。いくら『もうひとりぐらいなら入れそう』と言っても、白衣の中で一八〇度回転すると、どうしても体と体が擦れ合ってしまう。じわじわと白衣の中が帯電しているのが私にはわかるんだけど、牧野はどう感じているのだろう。
……まあ、いいや。
今回の件については一から十まですべて牧野が悪いのだ。だったら私は、遠慮するのをやめて、さっさと回れ右して牧野が意図的に作ったらしい白衣の隙間からそっと顔を覗かせた。
瞬間、パシャッ! とカメラのフラッシュが私を襲う。
「うわっ! ちょ、なんだよ」
牧野の胸という贅沢な暗闇に慣れていた私の目が明滅に潰れそうになる。目の痛みとか驚き具合とか、割と尋常ではなかったんだけど、そんな私を抱擁している牧野は楽しげだった。
「あはは、写真撮りたかったんだよね、私」
と嬉しそうに呟きながら、牧野は「ほら」と私に今しがた撮った写真を見せてきた。
そこに映っていたのは牧野の纏っている白衣の胸元から顔を覗かせてる私だった。
その謎の写真を見せられた私が抱いた感想と言えば、
「白いカオナシに丸飲みされかけているブサイクみたいだな」
だった。
私の抱いた感想に牧野は「えー! コアラみたいで可愛いよ!」と抗議していた。そのコアラがこの状況を指しているのか、光に怯んでいる私の顔を指して言っているのか、微妙なラインだった。どちらにせよ、私にとって『コアラ』はあまり褒め言葉として機能してなかった。
「んー、でも確かにインカメだと微妙かも。美術室に鏡とかってあった?」
「あー……どうだったかな。あってもおかしくはないと思うけど」
私は基本的に準備室のほうに居座っているから、美術室にどんな備品が置いてあるかはあまり詳しくない。記憶にはないけど、あったとしても不思議ではないという微妙なラインだ。
「とりあえず見てみようかな」
こんなところでうだうだやってるより実際に見たほうが早いのは同意だった。
だけど牧野は連結を解かないまま、
「ほら、歩いて」
私の脇の下に手をやってリハビリみたいなノリで歩行を促してくる。すでに抵抗するのもバカらしくなってきていた私は、されるがまま美術室へと繋がるドアへと向かうことにする。
いったいなにが面白いのか、この遊びに牧野はご満悦らしい。
「あっ」
と私が漏らしたのは、牧野の手がドアノブに伸びたその瞬間だった。
「えっ、なに?」
と軽いノリで尋ねながらも牧野は、ドアノブに手を伸ばすのをやめようとしない。
当然だけど学校のドアノブは金属で出来ているわけで。
指先がドアノブに触れた瞬間、バチンッ! と先ほどよりも大きな音と共に火花が散った。
「ぎゃああああああっ!」
先ほどの悲鳴が可愛らしく思えるような、バケモノの断末魔じみた悲鳴を牧野は響かせる。当然、体同士が接触している私の体にも静電気は走っていたけど、その悲鳴のほうが問題だ。
痛みではなく聴覚のほうがやられて、頭がガンガンと痛んだ。
そんな私のことなどお構いなしに、牧野は強すぎる衝撃に悶えるように蹲る。
白衣から顔をだけをだしていた私は、白衣によって強く下に引かれると同時に、牧野から膝かっくんを食らったような形になって、一緒になってその場に蹲る形になってしまう。
当然それに伴って、肩やら、膝の裏やら、体の節々が悲鳴をあげていた。
「……もういいか?」
これ以上くっついていると三度目の静電気が発生しそうだったから、牧野のためにも、自分のためにも、白衣からでようとしたんだけど、私の体を、牧野がギュッと抱きしめてきた。
「……もうちょっとだけ」
体が密着した耳元でそんなことを囁かれて、強くでられるわけもなく、
「あー……わかったよ」
私は渋々、牧野の精神安定剤代わりの抱き枕になってやることにした。牧野の白衣という謎の拘束から私が解放されたのは、それからたっぷり、一〇分ほど経ってからのことだった。
牧野は忌々しい白衣を脱ぎ捨て、それでもしっかり畳んでから所定の位置に戻していた。
それからちょこんと、所定の位置と化しているソファに座る。やたらと高い身長はまったく変わっていないのに、焦燥のせいか、先ほどよりその姿が小さく見えるから不思議だった。