第5話 私と君の居場所 02
「じゃあ、交換ね。私が先に着るから、そのあと真辺が着るの」
牧野の回答は明瞭で、なぜか私まで白衣を着ることになっていた。まあ、着る理由がないというだけで、頑なに拒否する理由もなかったから、流れに身を任せておくことにしたけど。
かつての開栄高校美術部では白衣を身につけるのがスタンダードだったのか、棚にはいくつか白衣が纏まって置かれていた。牧野につられるように、私もまた棚に近づき、白衣をチェックする。どこか張りを残している白衣は新品か、そうでなくともきちんと洗濯されたあとのものらしい。シミもほとんどついてなかったから、ほとんど使われてないのは確かだろう。
……これなら大丈夫そうだな。
と、私の心が安堵するように呟き、その上から、
……私は何にホッとしてるんだ?
自分自身に対するツッコミが飛んでくる。いや、牧野がどうこうではなく、これから私もこれらの白衣を着ることになるのだから、綺麗であることに越したことはないだろう。
自分のツッコミにもじもじと言い訳をしていたところで、
「あっ、大きいからこれにしよっと」
牧野は自分に相応しいサイズの白衣を見つけだしたようだった。
バッと大仰な音を立てながら白衣を広げ、牧野は颯爽とそれを身に纏った。ふわっと舞っていた白衣が重力に引かれて落ちると、その白色は、彼女の足元あたりまでを一気に覆い隠してみせた。化学の実験で着ていた白衣は小さすぎたけど、今回のそれはあまりにも大きすぎた。
……うわっ。なんだろう、この感じ。
私は牧野の私服なんて見たことがないけど、身長が身長だから、ピッタリとした服を着ている印象がある。制服にしても同様で、彼女は開栄高校のブレザーをピシッと着こなしていた。
普段の牧野はその身長と容姿で、大人っぽく見えるのである。
だからこそ、そのオーバーサイズは牧野の印象を幼げに反転させていた。
世の中には『彼シャツ』という文化があるらしいけど。
確かにあの白衣が自分の普段着だと考えると、なかなかにくるものがあった。残念ながら現実の私は牧野より背が三〇センチ近くも低いちんちくりんで、立場としては完全に逆だけど。
……いや、逆ってのもおかしいけど。
それだとまるで私が牧野の彼女みたいじゃないか。
閑話休題。
ともあれ牧野がオーバーサイズの白衣を着ている光景はなんとも犯罪的だった。
「うわっ、なにこれ! めちゃくちゃ大きいんだけど!」
袖も指先がかろうじて覗く程度で、なんともあざとい有様になっている。自分でも大きいと感じられる衣装が珍しいのか、牧野は大はしゃぎしながら白衣をバタバタやっていた。私専用のスペースとなっている準備室に、適切な掃除など行き届いているわけもなく、その動きに合わせてバカみたいに埃が舞う。軽いアレルギーを持っている私は、一瞬で鼻がムズムズした。
「ちょ、牧野! 埃舞うからやめろ!」
「あ、ごめんごめん、つい」
牧野は思いのほか素直に動きをとめるけど、その顔は相変わらずきらきら輝いて見えた。十秒ほどかけて埃が落ち着くのを待ってから、牧野は再び白衣をイジり始める。その動作は落ち着きのない小学生男子のようで、先生が見たら『ふにゃふにゃしない!』と怒られそうだ。
そんな牧野は今、白衣の前面部分を開いたり、閉じたりしている最中だった。
露出狂が家の中で素振りを行うとしたらこんな感じかもしれない。
「もうひとりぐらいなら入れそうだな」
露出の練習に励んでいた牧野が、なんだか気持ちの悪いことを宣っていた。
……もうひとりぐらいなら入れるってなんだ?
露出をしてそのまま被害者を白衣の中に連れこむとかそういう話だろうか? 露出に痴漢、それから誘拐と流れるように性犯罪を行う牧野を想像して、よくわからない気持ちになった。
自分のバカな妄想に辟易していた私に、牧野がガバッと白衣を開いてみせた。
「入る?」
流れるようにそう提案する牧野は、どこか誇らしげで、それでいて楽しげに見えた。
しかしそのポジティブな雰囲気に私はまったくついて行くことができなかったけど。
「いや……入るわけないだろ」
どうして入ると思ったんだよと、素でそう返してしまう。
「なんで!?」
案の定――というのもおかしな話だけど、牧野は私を理解できなさそうな顔で見ていた。
「なんでもなにも……入る理由がないだろ」
「それって入らない理由もないってことじゃないの?」
と、牧野にしては器用に揚げ足を取ってくる。
……いや、さっき『白衣を着ることになったとき』は私も似たようなことを考えたけど。
だからと言ってそこには程度の問題があって、この誘いは『理由がないから』なんて理由で乗っていいものには思えなかった。だから私は牧野からの謎の誘いを断ったんだけど――
「がばっ!」
という謎の効果音と共に、私は白衣に襲われる。
まさかこんなところで実力行使にでられるとは思わなかったから、完全に不意を打たれる。しかし牧野の指先が私の体に触れた瞬間、バチッ! と特徴的な音が鳴り響いたのだった。
「ひゃあん!」
口元が緩んでいるのか、牧野はやたらとデカい悲鳴を漏らす。
今しがた私たちを襲ったのは静電気だった。
たかが静電気にも関わらず、牧野は奇襲にでも遭ったように、床に蹲っている。
静電気なんだから牧野を襲った痛みと同程度の痛みを私も感じているはずだった。
確かに痛かったけど、どう考えても、そんなに過剰に反応するものじゃない。にもかかわらず、牧野は一向に立ちあがる気配を見せないどころか、脅えるようにその体を震わせていた。
「えーっと……牧野さん?」
ガクガクブルブルと子犬みたいに震える牧野の頭頂部に声をかける。
雷が鳴り響いたというのならわかるけど、私たちを襲ったのはたかだか静電気だ。そこまで過剰な反応をされると演技かと疑いそうになるけど、牧野は本当に脅えているようだった。
「……私、静電気がこの世で一番苦手なんだよね」
ガクブルしながら牧野が呟いたのは、どう考えても誇張の言葉だった。この世にはいろいろな恐怖症があるし、それぞれ異なった事情があるんだろうけど、静電気が一番怖いやつなんて聞いたことがない。静電気が怖いなら、雷はその何十倍は怖く感じそうなものだから。
「さいですか」
だから私は適当な返事をしたんだけど、
「牧野ですが」
すかさず牧野はこの前と同じ相づちを打ってきた。
「それがやれるんなら大丈夫だろ」
「大丈夫じゃない!」
牧野はガバッ! と顔をあげながら叫ぶ。
その目には確かに涙が浮かんでいたけど、恐怖の対象が静電気のせいで緊張感に欠ける。
だからそんな悲痛な涙を見たところで『嘘泣きが上手なんだな』としか思えなかった。
「と言うかブレザーの下にカーディガン着て、その上から白衣羽織ってって、静電気を溜めこむためにあるような格好だろ。静電気が苦手なら、白衣、さっさと脱いだほうがいいよ」
ブレザーの下にカーディガンの時点でかなり危ういのに。
その上に白衣まで羽織るなんて、自殺行為以外の何物でもない。
誇張であることは置いといて、牧野が静電気に脅えているのは確かなようだったから。
私はさっさと白衣を脱がせて、牧野のことをラクにしてやろうとするんだけど、
「えー! でもまだ真辺と一緒に入ってない!」
静電気に苦しんでいるはずの当人が、なぜか難色を示していた。
「……なにがお前をそこまで掻き立てるんだよ」
どうやら牧野は意地でも一回、私を白衣の中に引きこみたいらしかった。この世で一番苦手と称する静電気を私なんかのために我慢してる時点で、それが嘘だと言ってるようなものだ。
だけど牧野の強情さだけは痛いほど理解できてしまう。
バカだからこそできる説得方法だった。
「はあ……わかったよ。入ってやるから、それで満足したら脱げよ」
「えっ、本当!?」
一瞬で表情を華やがせる牧野を見て、やはりさっきのは嘘泣きだったんだろうなと思う。
しかし牧野は華やかな表情とは裏腹に、おっかなびっくりといった調子で立ちあがる。
なのに白衣の前面を開くときは、相変わらずのガバッ! だった。
判断基準がどこにあるのかまったくわからなかったけどもう考えるのも億劫になっていた。
牧野を相手にしていると、どうにも私は、この状態に陥りやすいらしい。
「そ、それじゃあ、いただきます」
と、牧野の声がなにを湛えてかか細く震えている。
「いや、いただきますはおかしいだろ」
なにするつもりなんだよ、と最低限のツッコミは入れておくけど。