第4話 君の世界、私の世界 04
カイロは依然として熱を放ち続けていて、私の手のひらを温めてゆく。
……こうしてると牧野と手でも繋いでるみたいだな。
それはやけに汗っかきの牧野だったけど。
そんなことを考えている自分がバカらしくて、くつくつと笑ってしまう。
横向きで布団に収まりながら、カイロを持った手を、顔のあたりまで移動させる。相変わらずバカみたいに熱を放っている湿ったカイロを眺めていると、妙な考えが頭をよぎった。
それは『カイロの匂いを嗅いでみたい』という考えだった。
どうして自分がそんなヘンタイじみたことを考えているのか理解できない。
……もしかして私は単なるヘンタイだったのか!?
と思うけどしばらく考えてみて、デッサンの基礎を学んだせいだと気づく。このカイロに染みこんだ牧野の匂いを嗅ぐことで、私はきっと、牧野の情報を得ようとしているのである。
……確かに匂いを嗅ぐなんてヘンタイっぽいけど。
それで牧野を巧く描けることに繋がるのであれば背に腹は代えられない。
なによりこの場にだれもいない今がチャンスだ。
なんとなくだけど温もりが残っているうちのほうが匂いも色濃く残っている気がしたから。
だから私はゆっくりとカイロを鼻先に近づけて、その匂いを思いきり吸いこんだのだった。
「あれ……?」
しかし私の覚悟とは裏腹にカイロには思っていたほど匂いは染みこんでいなかった。
少し汗臭いかな……? と言うのと、石鹸めいた香りが混ざってるだけ。
カイロのもともと放っている熱のせいで、やたらと期待値が跳ねあがっていたらしい。
……まあ、そりゃあそうか。
とガッカリしつつ、同時に『染みこんだ汗は本物だよな……?』という思考が頭をよぎる。ここまできたら匂いを嗅ぐのも、汗を舐めてみるのも一緒なのでは? と悪魔が囁いた。
実際、私には両者の違いなんてわからなかった。
だから私は鼻先からほんの少しカイロの位置をズラしてその表面に舌を這わせた。
口に汗が入ったときのしょっぱさ――が若干薄れたような味が舌先を弄ぶ。
匂いと同様、スポブラが濾過の役割でも果たしていたのか、全体的に薄味だった。
だけど若干熱を失いつつあるカイロは、ちょうど人肌程度の温もりを残していて。
そしてカイロの表面は少し粗いけど布のような手触りをしているのである。
そのせいで目を瞑りながらカイロを舐めると――その臭いも合わさって、まるで彼女の肌着を舐めているかのような心地に陥ってしまう。落ち着きかけていた心臓が再びバカになって、口から飛びだしそうになる。頭やら鼻先、舌やら心臓、それから下腹部――という体の中心がそれぞれ独特の熱を帯びていて、それぞれが連動して私のことを突き動かそうとしていた。
……あ、これ、ヤバいやつだ。
保健室の内装と同じように意識が漂白されて、牧野と自らのことしか考えられなくなる。
ほんのりと湿った欲望に支配されかけていたところで、保健室のドアが開いた。
「あら、どうしたの?」
入ってきたのが生徒なのか、養護教諭が優しげな声をかける。
だけどしっかりとカーテンは閉められているのだから、警戒さえしていれば、見つかることもない。そう思った私は、今まさに水位を増しつつある欲望に跳びこもうとしたんだけど、
「わすれものー!」
という叫び声が、他ならぬ牧野のものだったせいで、
「うあああああああああああああああああああああああ!」
警戒の『け』の字も忘れた大絶叫を保健室に響かせてしまったのだった。
カーテンの向こうで、牧野と養護教諭が「うわっ」と驚きの悲鳴を連鎖させていた。
「えっ、なに? 真辺、大丈夫?」
私がなにをしようとしていたのか知らない牧野は、問いかけと共にカーテンの隙間から顔を覗かせてくる。その顔は心配が半分、好奇心が半分という感じだったけど、私は言葉を紡げない。走りすぎた犬みたいに、私の口からは「はっはっはっ」という吐息が漏れていたから。
「だ、大丈夫……変な夢見て、悲鳴、あげちゃっただけだから」
十秒ほどかけて呼吸を落ち着かせたあとで、私は牧野になんとかそう告げる。
それから心配する必要はないと、私も教室に戻ることにした。
「あ、それじゃあ一緒に戻ろ」
と牧野が何気ない調子で言ってくれたので、私たちはそのまま一緒に戻ることにした。
保健室をでる段になって養護教諭が、
「あれ、牧野さん、忘れ物あったんじゃないの?」
と私たちの背中に告げてくる。
それを受けて牧野もまた自分が保健室に戻ってきた理由を思いだしたらしい。
「あっ! そうだった、そうだった!」
と、いそいそと先ほどまで自分が寝ていたベッドに向かっていった。それから掛け布団の中に手を突っこむと、恐らくそれを掴んで、そのままポケットに閉まったようだった。
「えっ、忘れ物ってなんだったの?」
手のひらに収まるサイズのもので、ジャージのポケットに入れておくものがパッと思いつかなくて、私はたいして考えることも、言葉を選ぶ事もせずにストレートに尋ねてしまう。
……家の鍵とか、そういう貴重品だろうか?
横になっているあいだにポケットからこぼれ落ちてしまったのかもしれない。
逆に言うとそれぐらいのつまらない回答しか思い浮かばなかったんだけど、
「うわあっ!?」
なぜか牧野はそこで初めて私の存在に気づいたように驚愕していた。
「えっ、なんだよ。その反応」
「い、いや、なんでもない」
明らかに『なんでもある』せいで、その言葉はネタ振りにしかなっていなかった。
「ヘンなやつ」
ただ、それを無理に問い質すのも憚れた。
先ほど牧野が気まぐれを起こして私の名前を金剛寺に告げてくれはしたけど。
それを以てして、彼女のことを友だちだと思っているのは、恐らく私だけだろうから。
……距離感を間違えてはいけない。
そう自らに言い聞かせて、私はそれ以上の深追いはやめておくことにした。
私に並んだ牧野の横顔は安堵しているように見えたけど。
それと同時に、どこかガッカリしているように見えて、私は小首を傾げていた。




