第4話 君の世界、私の世界 02
「は、剥がすね」
「うん。早くしてくれると助かる」
わかったと吐息を多分に含んだ声で囁いて、牧野はゆっくりとカイロを剥がした。ぴりぴりぴり……と接着面が剥がれる音が響き、それに引かれるようにしてインナーがズレていく。
前面部分が張り詰め、胸や腹部が圧迫される。
それは刺激と呼ぶには微量すぎるものだったけど私の体は敏感に反応していた。
……なんだ、この感覚。
走っているときはとにかく心臓がバカみたいに高鳴っていた。
だけど今の心臓はドクンッ! ドクンッ! と一回一回が破裂でもしそうなほど大きく振動していて、意識が飛びそうになる。これ以上、今の状況が続くとヤバいと思ったところで、
「よし。取れた」
と牧野が呟き、張り詰めていた感覚が遠退いていった。
胸が軽くなるような感覚に安堵しながら、シャツを元の位置に戻し、牧野に「あ、ありがと」と告げる。しかし無闇やたらと高まっていた気持ちの行き場を失ってしまったのも事実で。
私は一抹の名残惜しさめいたものを感じているようだった。
「はあ」
まだ具合が優れないのか、背後から熱っぽい吐息が聞こえ、ベッドが軋む音がそれに続く。その音に引かれて振り返ると、牧野が先程とは異なる横向きの姿勢で私を見あげていた。
それは私たちが美術準備室で出会ったときの姿勢にどこか似ていた。
そのせいか私はしばらくのあいだ牧野の姿に釘づけになってしまう。
どれぐらいのあいだそうしていたのか。
ふと、具合が悪くて横たわってる相手の姿をガン見するものじゃないよなと我に返る。
「あー……カーテン閉めとくよ。私も、もうちょっと休みたいし」
私たちに貸されたベッドのあいだには、当然仕切り代わりのカーテンが設置されている。こんな互いに筒抜けの状態では落ち着いて休眠もできないだろうとカーテンへと手を伸ばした。
「あっ」
シャッ――とカーテンが音を立てる直前、牧野が慌てたような声をあげた。
「……なに?」
閉じかけていた手をとめて、牧野をそっと見やる。
「あー……」
彼女はバツが悪いときにそうしてきたように、答えを求めてその視線を彷徨わせる。
「んー……」
しかしノイズとなるようなものを極力排除した白い室内には、言い訳になるようなものも見つからない。彼女はそれからもうしばらく「あー……」と唸ってみせていたんだけど、
「真辺がよければ……開けといて欲しい」
最終的にそう呟いたのだった。
真偽を確かめたい一心で牧野の表情を観察すると、彼女は弱ったように顔を背けた。
横たわってるせいで巧く隠せてなかったけど。
そんな初々しい反応を見ていれば、それが牧野の本心であることはイヤでもわかった。
「……わかったよ」
こちらとしても牧野の顔を観察できるならそれに越したことはないのだ。だから私はカーテンを半分開け放ったままの状態で自分のベッドに横たわった。冷えた汗が体を濡らし、背筋がわずかに震える。あれこれやっているあいだに、私のほうはだいぶ回復したらしかった。だけどこんなタイミングで体育に戻るのも億劫で、私はそのままシーツを自らの首までかける。
ホッと一息ついたところで牧野を見やる。
当然のように私を注視していた牧野と視線が正面衝突した。
……観察したいのは私のほうなんだけどな。
そんなふうにマジマジと見つめられたら、こちらとしてはやりづらくて仕方ない。
「……なに? 私の顔になんかついてる?」
私の顔は牧野に比べれば貧相なもので、他人に見られることに慣れてもいない。それならまだ慣れない口を動かしていたほうがマシだったから、私は牧野にそう問いかけたんだけど、
「えっ、いや……」
これまでとは立場が逆転してしまったように牧野はたじろいでいた。
……なんだ。内心で私のことバカにしてたのか。
牧野ぐらいの美貌の持ち主からしてみれば、確かに私なんてただのちんちくりんだろう。もしも彼女が私のことをバカにしてたとしても、たぶん私は腹を立てる気すらおきなかった。
「……真辺だなって」
しかし牧野が口にしたのは中途半端なごまかしの言葉だった。
そのごまかしが却って私のことを苛立たせていることには気づいてもいないのだろう。具合が悪くて横になっている人間を責める気にもなれなかったから、そのまま話題を逸らす。
「マラソン、なんであんなにマジになってたの?」
軽い世間話のつもりだったんだけど、牧野の反応は先ほど以上に優れなかった。
「……………………」
牧野にしては長すぎる沈黙を携えて、私の内心を探ろうとするように視線が鋭さを増す。普段ならそんな視線、居心地の悪さしか感じなかったはずなのに、私はそこからなぜか、縋りつくような独特の空気を感じとる。だから、牧野が口を開くのを黙って待つことにした。
会話なんてなくても、牧野の姿を眺めてさえいれば、退屈することなんてなかったから。
どれぐらいの時間がたっただろう。
体感で一〇分ほど、私たちは見つめ合っていた気がした。そこは時計の存在しない漂白された空間だったから、時間の感覚はすでに狂っていたけど。だからこそ逆に、いくらでも牧野と見つめ合っていられるような気がしたのだ。そんな状況だったから私は、牧野が口を開こうとしたとき、先程と打って変わって、その沈黙に名残惜しさを感じてしまっていたのだった。
「あのさ、真辺。私――」
彼女が言葉を句切ったのはきっと、単純にその先が、口にしづらかったからだろう。
しかしそこに言葉が続くことは、ついぞなかった。と言うのも、
「先生、牧野きてる?」
保健室のドアが騒々しく開いたかと思うと、金剛寺の声が聞こえてきたからだった。
足音は複数あるからたぶん『中』のやつも一緒にきているんだろう。
「やっべ」
と漏らしたのは私で、彼女らはすぐに牧野のベッドのそばまでやってくることだろう。今さらカーテンを閉じるのも音が立って不審なはずだから、私は狸寝入りを決めこむことにする。
「すー……」
なんてわざとらしい寝息を立てながら、
……なんでこんなにこそこそしなくちゃならないんだ?
と疑問になったけど。牧野ひとりならなんとか会話できる私だけど、そこにグループのふたりが加わったら地蔵にならざるを得ない。だったら最初から寝たフリをしてたほうがマシだ。
しゃー……と柔らかな音が響いて、牧野側のベッドのカーテンが開くのがわかる。