第4話 君の世界、私の世界 01
保健室にふたり仲良くやってきた養護教諭の杉菜は、
「サボりってわけじゃ……なさそうね」
と、ずいぶんと失礼なことを宣っていた。
それでも私たちの上着を脱がした上でベッドを貸してはくれたし、
「軽い熱中症だと思う。水、置いとくから飲めそうだったら飲みなさい」
養護教諭はコップを枕元のサイドテーブルに置いた。
水差しはなぜか牧野のほうだけに置かれていたけど。
「暖房が効いてるから大丈夫だと思うけど時期が時期だから風邪には気をつけて。汗が冷えたり、少しでも寒さを感じるようだったら、シーツを羽織るなりしないさい。わかったわね?」
「あ、はい」
と答えたのは私で、牧野もベッドの上でこくりこくりと頷いていた。
どうやら返事をするのも億劫らしい。
そうひとりで納得して、隣のベッドに仰向けに倒れる牧野をマジマジと見つめる。マラソンで乱れた呼吸はいまだに彼女を支配していて、呼吸に合わせて胸の部分が荒く上下している。シャツは汗でびしょ濡れになっていて、ボディラインやら、スポブラの形や色やらを透かしていた。彼女の体は先ほどカイロを張るときに眺めたはずなのに、そのときよりドギマギする。
なんだったらマラソンしてるときよりも――
――いや、それはさすがにおかしいだろ。
確かに今の牧野はメチャクチャえっちだったけど。
だからって走っていたときよりも息切れと動悸が激しいとか。
ただのヘンタイオヤジじゃねーかと自分を罵って心のバランスを保とうとする。
「あっ」
なんて悶々としていたところに、そんなこと考えてる場合じゃないだろと我に返る。
「牧野、お前、カイロまだ剥がしてないだろ」
体育教師にも養護教諭にも、話がややこしくなりそうだったから、私たちがカイロを貼っていた事実は伏せていた。だから依然として、私たちの背中側はホカホカしてる最中なのだ。
「ん……剥がして……」
と言って、牧野はごろんと私に背中を向ける。
上体を起こす気力もないのはわかるから、まあ百歩ぐらいは譲ってやるけど。
……えっ、こんな状態で剥がすのか?
私が牧野の背中に辿り着くには、もう五千歩ぐらいある気がしてならなかった。
「……早く」
私の気など知らない牧野が急かしてくる。だけどこのままだと牧野の体調が悪化することも考えられた。私の気持ちとどちらを優先すべきかは考えるまでもなかったから。
私はゆっくりと牧野の体へと手を伸ばした。
なるだけ距離を離した状態で、手だけをおっかなびっくり伸ばしてシャツに触れる。
外気と体温の温度差で温くなった汗が私の指先を濡らす。
これが他のやつの汗だったら不快感しか覚えなかっただろうけど。
牧野の肌から分泌されたものなのだと思うと、不思議と不快感は覚えなかった。
だけど汗が原因でシャツは肌にピタリと張りついているのと、一部が体の下敷きになっているせいで、距離を離したままだと巧く脱がせることができない。仕方なくベッドの縁に腰かけて両手を使ってぐりぐりとシャツをたくし上げていく。先ほど見惚れたばかりのくびれや背骨が露わになって――だけど今回は雪の冷ややかさではなく、肉体の質感が強く表れている。
汗が浮いて、かすかに赤らんだ肌。
――デッサンにおいて大切なのは五感を使うこと。
その匂いや手触り、音や味を感じ取ることで、表現の幅が広がっていく。
なぜかそんな文言を、こんなタイミングで思いだしてしまう。
牧野の匂いを思いきり嗅いで、その肌に指を這わせて、背中をそっと舐めて――
――そしたら牧野はどんな声で鳴くのだろうと、そんなことを考えてしまう。
――いや、なに考えてるんだ!?
私がやるべきなのはデッサンで、その目的は『牧野の美しさをそのまま』描くことだ。牧野の美しさを描く事と、彼女のスケベな姿を想像することのあいだに意味があるとは……
……いや、どうなんだろう。
芸術の一部がスケベ――いや、エロスに根ざしているのは紛れもない事実である。
それを私のような素人に近い女子高生が否定してしまうのは、あまりにも狭量な気もする。だったら今の私がすべきなのは、欲望を否定せず、そのまま身を委ねることなのでは……?
「真辺……? 大丈夫……?」
そんなふうに欲望に支配されかけていた私に牧野のか細い声がかけられる。
どうやら突然私の手がとまったせいで、牧野に心配をかけさせてしまったらしい。
……もし仮に、エロスに私が求める芸術性があったとしても。
それを求めて手を伸ばすのは、牧野が弱っている今ではないだろう。
「いや、なんでもない。今、剥がしてやるよ」
そう告げて私はなるだけ牧野と自らの欲を意識しないようにしながらシャツをたくしあげ、先ほど私の手で貼ってやったばかりのカイロを剥がした。スポブラをびしょ濡れにしていた汗は当然のようにカイロまで濡らしていて、私はその熱がなんの熱なのかわからなくなる。
その熱はカイロ自身が放っている熱のはずなのに。
私にはその熱がまるで、牧野の余熱のように感じられたのだった。
「剥がれた?」
私の気持ちが邪に傾きかけていたことに気づいたように牧野が尋ねてくる。
私が「あ、うん」となんとも言えない弱々しい返事を返すと、牧野が体をひっくり返した。
つまり私に背を向けていた体が一八〇度回転して、その顔が私のほうを向いたのである。
顔の汗はだいぶ落ち着いたようだけど、その前髪は相変わらず濡れて貼りついている。
その瞳にしても具合の悪さを湛えるようにわずかに濡れていたものだからドギマギする。先ほどグッと堪えたはずの『牧野に触れたい』という衝動が、鎌首をもたげそうになっていた。
「えっ、あ、なに……?」
「私も、剥がしてあげるね。シャツ、脱いで」
たったそれだけのことにしどろもどろになっていた私に牧野があっけらかんと告げる。
……剥がす? 脱ぐ?
とスケベに傾いていた私はすぐにその意味を掴めなかった。
しばらく考えたところでようやく、
「あっ、はい。カイロね、カイロ」
私がそうしたように、牧野もまた、私のカイロを剥がそうとしてくれている事実に気づく。
だから私は慌ててシャツをたくしあげて、牧野にインナーを晒す。キャミソールタイプのインナーだから露出部分が相応に多く、シャツを半分脱いでいることもあって、汗が一気に冷えるのがわかる。室温のおかげで肌寒さは感じなかったけど、普段は露出しない部分が空気に触れている感覚が生々しくて落ち着かない。しかも牧野は一向に動きだす気配を見せなかった。
「……どうしたんだよ。早く剥がして欲しいんだけど」
牧野に向けて肌を晒しているという事実も私の気持ちを浮つかせていた。
暑いんだか寒いんだかわけがわからなくなりそうで、先ほどよりも目眩が酷い有様だった。
「えっ、あ、ごめん。今とるね」
私の背後で牧野が身を起こす気配がして、肩甲骨のあたりに彼女の指先が触れる。背後に全意識を集中していたせいで、その感覚がやたらと鮮明にひた走り、私の体が震えそうになる。
「は、剥がすね」
「うん。早くしてくれると助かる」
わかったと吐息を多分に含んだ声で囁いて、牧野はゆっくりとカイロを剥がした。ぴりぴりぴり……と接着面が剥がれる音が響き、それに引かれるようにしてインナーがズレていく。
前面部分が張り詰め、胸や腹部が圧迫される。
それは刺激と呼ぶには微量すぎるものだったけど私の体は敏感に反応していた。
……なんだ、この感覚。
走っているときはとにかく心臓がバカみたいに高鳴っていた。
だけど今の心臓はドクンッ! ドクンッ! と一回一回が破裂でもしそうなほど大きく振動していて、意識が飛びそうになる。これ以上、今の状況が続くとヤバいと思ったところで、
「よし。取れた」
と牧野が呟き、張り詰めていた感覚が遠退いていった。
胸が軽くなるような感覚に安堵しながら、シャツを元の位置に戻し、牧野に「あ、ありがと」と告げる。しかし無闇やたらと高まっていた気持ちの行き場を失ってしまったのも事実で。
私は一抹の名残惜しさめいたものを感じているようだった。