第3話 私の教室、君の教室 03
気を取り直して世界史の授業を挟んで、三時間目の体育だ。
今日の体育の内容はマラソンのはずで、普段なら軽やかな更衣室へと向かう足取りが、今日にかぎっては遅々としていた。そして私は相変わらず、牧野たちのうしろを陣取っている。
「はあー、体育ってだけで憂うつなのにマラソンなんて最悪」
女の子の日だってことにしようかな。
とぼやいていたのは『中』だった。
なんとなく生真面目な印象だったけど、どうやら体育は苦手らしい。
「お前、先週も生理だっただろ」
「いや、先週のは本物だからー」
と金剛寺も混ざって歯に衣着せないやりとりに発展する。
周りには男子の姿もないからそれでもいいんだろうけどと牧野を見やると、やたらとキョロキョロしていた。首の部分が壊れた自動の監視カメラみたいな動きで、やたらとコミカルだ。
……男子に気でも遣ってるのだろうか。
まあ、そういうストレートな物言いは嫌われそうだけど。
牧野がいちいち男子の目を気にしているという事実に、なぜか私はショックを受けていた。話題が『生理』なんていうイヤでも性を思わせる内容だったからか余計になのかもしれない。
それはそれでおかしいような気もしたけど。
どうして牧野が異性の目を気にしてたら、私がショックを受けなければいけないのか。彼女が異性を気にしていたからと言って、その美しさがすべて『異性のためのもの』になるわけではない――なんてことを必死に考えていた私と、キョロキョロしていた牧野の目が合う。
今回は『あんだけキョロキョロしてれば目も合うだろう』って感じだったから平静でいられたけど。なぜか牧野のほうが強い衝撃を受けたように『はっ!?』という表情をしていた。
……なんだその顔。
先ほどまで余裕綽々みたいな顔をしていた癖に、急に変な顔をしてくるものだから戸惑う。
「は、花は運動全般苦手だからね!」
それだけではなく牧野は露骨に話題を逸らすように白々しい声でそんなことを言っていた。
友だちが生理の話をする。
牧野がキョロキョロする。
牧野が私の存在に気づく。
牧野が露骨に話題を逸らす。
べつに生理の話なんて勝手に続けてくれって感じだったけど。
それでも牧野は私に生理の話題を聞かせたくなかったのだろうか。
……なんの気遣いだ?
そのトンチンカンな言動の意味がわからなくて、直接尋ねたくて仕方がなくなる。
しかし完成しているグループの勢いよく回っている会話に割って入れるわけもない。
そこには高速回転する丸鋸に舌を差し入れるのにも似た直接的な恐怖感があったから。
だから私は相変わらず自分の頭だけであれこれ考えるしかないんだけど、
……えっ、こいつ私にまだ生理がきてないと思ってんのか!?
私が至ったのはそんな失礼極まりない考えだった。
……確かに私は身長一五〇にも満たないチビだけど!
これでも小四にはもうきてたんだぞ!? と妙な憤りを感じる。
そのすべてが自分の妄想に過ぎないと気づくのに三分近い時間を要したのだった。
だからそうと気づいた頃には、私たちは肌寒い更衣室に辿り着いていた。
制服の着脱が躊躇われるほどではないけど、これから外にでてマラソンに勤しむことになると思うと憂うつになる。それはクラスメイト全員が抱えている想いなのか、更衣室がひとつの意志でも持ったかのように、暗澹としていた。そこで着替える生徒たちの動きも当然鈍い。
しかしその中で唯一晴れやかな表情を浮かべていたのが牧野だった。
「……なんでリムはそんな楽しそうなの?」
やたらとニヤニヤした表情で見つめてくるものだから、仲間も振れないわけにはいかなかった。やっと自分に触れて貰えた牧野は「ふっふっふー」と馬鹿独特の笑いを披露していた。
「……なにさ」
もったいぶるような牧野の不敵な笑みに、焦れたように金剛寺が言う。それに対して牧野はジャージの入っていた巾着袋からビニルで梱包されたそれを「じゃーん!」と取りだした。
「前回のマラソンは寒すぎて死ぬかと思ったから秘密兵器を持ってきた!」
それはオレンジ色をしたビニルで、私は祖父母の家で何度もそれを見たことがあった。
「お前、カイロって……」
苦しげに呻くような声で金剛寺はその物体の名前を呼ぶ。その場にいたふたり――+その話を聞いていた私と周りのやつら――が、等しく『マラソンにカイロ……?』という気持ちだっただろう。渦中にいる当人だけがその異常性に気づかないままドヤ顔を披露していた。
「ふっふっふ。花ちゃんにも一個あげるね」
と、牧野は個別に梱包されていたカイロを返事も待たずに開封する。
「えっ、要らない」
しかしいくら温厚そうな『中』でも要らないものは要らないのかにべもなくそう告げた。
どうしてそんなことを言うのか理解できないという顔で牧野は『えっ……?』と漏らす。
あまりの衝撃にその視線をわずかに震わせながら今度は金剛寺へと向かう。
「じゃ、じゃあ、枇杷は?」
先ほど断られたばかりなのに、なぜか新しい梱包を解きながら、牧野は金剛寺に尋ねる。
「これからマラソンでイヤでも汗かくんだから要らんて」
「えっ!?」
先ほどより明確に驚愕の色を露わにしながら牧野が叫ぶ。
その手には大量のカイロが入ったお徳用の袋と、開封済みのカイロがふたつ握られている。行き場を失ってしまったカイロと想いを持て余した牧野は、更衣室に視線を彷徨わせる。
そうすると当然、彼女を注視していた私と目が合うことになる。
「……いる?」
と問いかけながら、牧野はまた返事を待たずにカイロを開封し始める。
――お前、その謎の癖、普通に直したほうがいいぞ。
と思うんだけど、まあ、今までどおりひとの多いこの場で口を挟む気にもなれず。
「あー……貰おうかな」
「やっぱり欲しいよね! 貼ってあげる!」
私が『貰う』と言った瞬間、牧野は「そうだよね!?」と浮き足だった。
しかも早く背中向けて! と急かしてくる始末。
――えっ、なに、それ貼るタイプなの!?
謎の驚愕を抱えながら私は言われるがまま背中を向ける。するとシャツをガバッ! と半分近く脱がされた上で、バチンッ! と勢いよく肩甲骨のあたりを叩かれた。どう考えてもそんなに強く叩く必要なんてなかったと思うんだけど。しかもわざわざインナーに貼るなんて。
「あーあ、甘やかしたな」
と金剛寺から謎の冷やかしを受けたけど、私はもごもごと口を動かすことしかできない。
「あっ、そうだ! 私にも貼って!」
と牧野は勢いをそのままに私の手にカイロを押しつけると、ぐぐぐっ……とシャツを肩のあたりまでたくしあげる。その下はスポブラのみで、まっ白な肌が露わになってしまっていた。
……いや、寒いならカイロの前にインナーでも着てろよ。
それにどうせジャージ着るんだからシャツの上に貼ったほうがいいのでは? とも思う。
……と言うか牧野、めちゃくちゃ細いな。
メチャクチャ健康的な体つきをしているのに、そのウエストは、そうであることが義務であるかのようにキュッとくびれている。その中央をひた走る、職人の手によってなされた律儀なミシン跡のような背骨もまた人目を惹く。そのすべてが、芸術品のように美しかった。足跡ひとつない雪原を思わせる白い肌は、たとえ肌着の上であっても触れることを躊躇わせる。
「ねえー! 寒いんだけど! 早くして!」
牧野の体に見惚れていた私を、当人が馬鹿みたいな声で急かしてくる。だから私はなるだけ彼女の体や肉や肌を意識しないようにしながら、スポブラの上に、思いきりカイロを貼った。
パンッ! という小気味よい音と共に、
「よし!」
牧野は気合いたっぷりの声をだすと、そのまま更衣室をでていった。
背中が丸だしだったから、そのまま金剛寺の制止にあっていたけど。