第3話 私の教室、君の教室 01
そもそも今までの私は感覚に頼りすぎていたと反省する。
巧く描けているうちはそれで問題なかったけど、それではうまく回らなくなってしまった。それなら万人に共通する方法論を頼るべきだろうと、私はデッサンの基礎を一から学ぶことにした。美術準備室には初心者用と思われる教本が置かれていたから、それを参考にしてみる。
まずデッサンは大抵、果物のような生ものと、レンガやティッシュ箱といった立方体、それから瓶や薬缶といった複雑な反射を伴うものが使われる。それぞれ理由はあるが、デッサンにおいて共通しているのは『馴染みのある物体の形を改めて掴み直す』という点にあるようだ。
たとえば私ぐらい絵が得意なひとであれば実物を見なくともリンゴなんて容易く描ける。
『リンゴならこんな感じ』
という漠然としたイメージを頭の中に持っていて、それをいつだって引きだすことが可能だからだ。しかし『頭の中にあるリンゴ』は『この世のどこにも存在しないリンゴ』でもある。それはたとえるならジュースのパッケージ等に描かれているような大多数が思い描く『リンゴのイメージ』に過ぎない。絵が得意なのにデッサンが苦手なひとがいるのは、こうした自分のイメージに縛られ過ぎているからだ。目の前のリンゴを見ずに、固定観念でリンゴを描いてしまうのが原因らしいのである。目の前にあるリンゴは、描き手が初めて出会ったリンゴであるにも関わらず、だ。だから一にも二にも、デッサンにおいて大切なのは、観察なのだ。
そしてもうひとつ。
デッサンにおいて大切なのが『五感を使うこと』なのだという。
その本では『サボらせない』という表現が使われていたけど。
観察で使えるのは目だけではない。
実際に触ってみてその質感を皮膚で感じ取るのも大事だし、手触りを知ることで初めて描ける部分も存在する。言われてみれば確かにそのとおりだ。ならば食感や味、醸しだす匂い、叩いたらどんな音が鳴るのかも、デッサンにおいてはヒントになるに違いない――らしい。
そこまでいくと眉唾だと思ったが、頷ける部分がないわけでもない。
――どうせ進退窮まっている状態なのだ。
やるだけタダなら、やってみる価値ぐらいはあるだろう。
そう思った私は、日常生活における牧野の振る舞いを観察することにした。
○
一時間目、化学の実験。
今日の授業は折良く実験だった。
実験であれば座学とは違った一面が見られるし、なにより観察を行いやすい気がする。私のクラスは朝のSHRが終わると同時に、ぞろぞろと仲間内で移動を始める。牧野もまた、ふたりの友人と合流して、さっさと移動を開始した。なるべくそばで牧野のことを観察したかった私は、その少しうしろについて歩く。クラス全体がぞろぞろしているから、ある程度の距離まで近づいても不自然ではない。だから思い切って会話が聞こえる距離まで近づくことにした。
「と言うかリムが朝一で学校きてるのひさしぶりじゃない?」
グループの中で一番背の小さい女が仲間内にそう話題を振る。
……リム?
と首を傾げていた私だったけど、
「まるで私を不良学生みたいに言わないでくれませんかね」
と答えたのは他ならぬ牧野だった。
どうやら牧野の下の名前はリムと言うらしい。
「いや、どう考えたってリムは不良以外の何物でもないだろ」
と嘯いたのはやっぱり小さいやつだった。
その逆サイドにいる中ぐらいのやつは、あくまで静観を決めこんでいる。
牧野のグループは牧野を『大』として、他に『中』と『小』がいるらしい。とは言っても恐らく一七〇を易々とオーバーしてる牧野が特殊なだけで『小』のやつにしても、身長は一五〇を優に超えてるはずだ。中ぐらいのやつは、たぶんそのあいだの一六〇といったところか。
ちなみに私の身長は一五〇にも届かないので、なんとも言えない気持ちだったけど。
「だからー! 私はサボってたわけじゃなくて寝過ごしただけなんだもん」
「それをひとは『サボり』って言うんだよ!」
「もう! 相変わらず枇杷は細かいんだから。さすが金剛寺だもんな」
「私の名字は関係ないだろ!?」
なんてケンカなのか、ゆるふわなのかわからないやりとりを、牧野と『小』は繰り広げる。
……そう言えば金剛寺枇杷なんて名前だったか。
一度聞いたら忘れない強烈な名前だったから、その名前だけは記憶に刻まれていた。
反面、その容姿はどこか没個性気味で、その金剛寺が牧野のグループだとは知らなかった。
「まあまあ。リムもあんまり枇杷のことイジメないの。枇杷、ずっと寂しがってたんだから」
三人の中で一番ふわふわした『中』が牧野に向かってそう告げる。
――えっ、この態度で?
と、部外者の私ですら驚いて、金剛寺の顔を覗きこみたくなってくる。
「えー? そうなのー?」
それは牧野も一緒だったのか、その声だけでニヤニヤしてるとわかる。そんな調子のまま金剛寺の顔を覗きこもうとするものだから、自然と「や、やめろよ」なんてじゃれ合いになる。
そして顔を覗きこもうとしたということは、背後を見やるような形になるわけで。
「あっ」
と漏らしたのは牧野で、
「えっ」
と漏らしたのは私だった。
その原因は視線の正面衝突という人身事故だった。
「ん? どうしたの?」
と、私たちの声に反応して、金剛寺まで振り返ってくる。
そうなれば当然、残りの『中』まで私を見やるわけなんだけど。
……いや、そんな、注視されても困るんだけど。
追突事故にも似たような有様に、私はタジタジになってしまう。
――お前が不用意に変な声漏らすからだぞ!
と、責任転嫁しながら牧野を睨むと、彼女は明後日の方向に視線を逸らしていた。
「ひゅー……ぴゅっ……ぴゅるっ……」
しかもアニメの登場人物がシラを切るときのように口笛まで添えていた。
いや、まったく吹けてないせいで、かえって怪しさ満点になっていたけど。
ともあれ渦中の人物が奇行に走っているせいで、面識のない私たちが見つめ合う。
「あー……」
と呻き声をあげたのは金剛寺で、彼女は私の顔をガン見して、顔を顰めていた。
……なんだその顔。
と思いつつ、それを口にだせるわけもなく、私も似たような顔をして彼女を睨む。それから数秒かけて低かった「あー」が高くなっていき、彼女がなにかに辿り着いたことを悟った。
「サのひと」
「…………」
……なんだ、サのひとって。ヤのひとみたいな言い草やめろよ。
そう素で返しかけるけど、人前で声をだすのに慣れてないから、声がでてきてくれない。
しばらく考えてみて、それが『真辺』の『サ』であることに気づく。
彼女が辿り着いたのは山の二合目ぐらいだったけど。私は丸一日だれとも喋らない空気みたいな人間なんだから、頭文字を覚えて貰っていただけで満足すべきなのかもしれないけど。
ただ牧野のやつが「ぷっ」と笑ってるのには普通に腹が立った。
「もしかして私たち邪魔だった?」
と問いかけてきたのは『中』で、確かに廊下の中央を陣取っている彼女たちは邪魔と思われても仕方なかったかもしれない。なによりじゃれ合いがエスカレートしていた段階だったし。これ以上『サのひと』の話題を掘りさげても自傷にしかならなそうだから『中』に乗っかる。
「あー、うん……すっげー邪魔だった」
「そうだよね。ごめん、ごめん」
と言って、『中』は先に行けと示すように道を譲った。私としてはもう少し牧野のことを観察していたかったんだけど、ここで逆らうのもおかしな話なので、おとなしく従っておく。
「ほらー、枇杷のせいで怒られちゃったじゃん」
背後から牧野のはしゃいだ声が聞こえてくる。
その声が背後で聞いていたときより弾んで聞こえるのはどうしてだろう。徐々に遠ざかっていく距離と小さくなっていく声に名残惜しさを感じている心が、そうさせたのかもしれない。
――せっかくのチャンスだったのにな。
まあ、本命はこれから始まる授業なんだからと私は自分に言い聞かせる。
しかし先ほどの半端なやりとりも相まって、私の心はしばらく沈んだままだった。