第1話 私は君を描きたい 01
私はこの開栄高校唯一の美術部員だ。
この前、魔がさして『部活動』で検索をかけたら『共通の趣味や興味を持つ者たちが集まった団体、もしくはその活動』とでてきて、なんとも言えない虚しい気持ちになったけど。
私の気持ちとは関係なしに、学校からも認可されている正真正銘の部活だった。たったひとりなのにどうしてそんな優遇がなされているのかと言えば、そもそもうちの高校の部活動の概念がガバガバなのと、私が中途半端に公募で結果をだしてしまったせいだった。学校の物置と化している美術関係の施設や備品を好きに使っていいから、次の公募には『開栄高校美術部の代表』として応募してくれという話らしい。言うなれば、スポンサーみたいなものだろう。
部費は雀の涙ほどだが、学校の中に活動場所があるだけで相応のリターンがある。
こうして『ひとりぼっちの美術部』は誕生した。
ただ、私としても頭数ばかりの無能が揃ってるより、たとえ独りであっても美術室にある備品を独り占めできるほうが何倍も都合がよかったから、今の環境は相応に気に入っていた。
……中学の頃の美術部はオタクの溜まり場になってたからな。
きちんと活動してくれるならそれでも構わないが、あの部活は『教室に居場所がないやつらが集まってるだけ』という有様で、まともに絵も描かない連中ばかりが集まっていたから。
残念ながら私はオタクらしい趣味や知識をあまり持ち合わせていなかった。
その結果、唯一マジメに活動していた私が孤立するという最悪の状態だったのだ。
それに比べれば今の環境は楽園だった。
放課後になって、今日も私は勇み足で美術室へと向かい、合鍵で中に入る。天板の角度を変えられるタイプの机が縦横何十個も並び、そこに規則ただしく木製の椅子が添えられている。
棚にはモチーフに使われる石膏像や薬缶、瓶といった道具が並んでいる。
広々とした部屋に隈無く染みこんだ画材の匂いを吸いこみながら、しかし私はそのまま美術室を素通りして、部屋の奥にあるもうひとつのドアから、美術準備室へと向かっていく。無駄に広々とした美術室よりも、こぢんまりとした準備室のほうが私の性には合っていたから。
だから基本的に私は準備室のほうで活動を行うことにしていた。
しかし準備室に足を踏み入れた瞬間、私の楽園が踏みにじられたことを知った。こういうときは『何者か』と犯人を暈かすのが常のような気がするけど、これは謎でもなんでもない。なぜなら犯人は部屋の奥に置かれたソファで、馬鹿みたいな顔で寝息を立てていたのだから。
「牧野じゃん」
気安く名前を呼んでしまったが、寝ていたのはクラスメイトの牧野だった。いわゆる『陽キャ』と呼ばれる類の人間で、私は牧野や、彼女が所属しているグループ全体に苦手意識を持っていた。他のやつなら、さっさと叩き起こして、準備室から追いだしてしまうんだけど、相手が牧野となると厄介だ。目をつけられたりしたら、執拗にイジメられる未来しか見えない。
……と言うかこいつ、五、六時間目いなかったような気がするんだけど。
もしかして昼休みからずっとここで眠り続けていたんだろうか。
私も決してマジメに授業を受けるタイプではないけど、こんなに堂々とサボる度胸もない。やっぱり牧野は不良なんだろうな……と思うと、ヘタに刺激するのも恐ろしく感じられた。
……まあ、さいわい静かに寝てくれてるみたいだし。
だったらこのまま寝かしといてやろうと、私はその横でテキパキと作業を始めた。
とは言ってもなにも決まってない現段階で出来るのは、スケッチブックと鉛筆を用意して、普段の癖で上履きと靴下を脱ぎ捨てることだけだったけど。私は手袋だとか、靴下だとか、帽子とか、腕時計とか、そういう体を締めつけるタイプのものが苦手で、基本的になにも身につけていたくないタイプの人間だった。周りの目の手前、靴下ぐらいはちゃんと穿いてるけど。
こうやって自由の身になった瞬間に脱ぎ捨ててしまう程度に私は靴下を憎んでいた。
ようやく拘束から解かれた私は、ほんの少し軽くなった心でスケッチブックと向き合う。
私は『このコンクールに応募してやろう!』と思って絵を描くことはほとんどない。今はネットの影響もあって、規模にさえ目を瞑れば、年中コンクールが開催されている状況だ。世間は『才能は若ければ若いほどいい』と考えるし、とくに十代には甘い風潮がある。だから私はコンクール用に絵を描くのではなく、絵が仕上がったタイミングで、その絵に相応しいコンクールに応募することにしていた。そのほうがヘタに傾向を読むことなく、自然体で描けるから。
しかしそうしたスタイルが災いしてか、ここ数ヶ月、キャンバスに向かっても絵が描けない日々が続いていた。いわゆるスランプというやつで、手がまったく動いてくれないのである。
〆切りがあればそれに合わせて無理やり絵を描くこともできるだろう。
実際、多くの芸術家も〆切りにケツを蹴られて、重たい腰をあげるものだ。
だけど、そうした外的な因子に左右されるものが本当の芸術なのだろうか。私たちが描くべきなのは、真に自分の内側から沸き起こってきた、熱い衝動めいたものではないのか。
なんとも青臭い感情だと自分でも思う。
だけど私はまだ十六歳の高校一年生なんだから、これぐらいの青臭さは大目に見て欲しい。そうやって順を追って考えてみると、〆切りを設けて無理やり絵を描く気にもなれなかった。
「んんっ……」
と、ソファで寝ていた牧野が譫言めいた声を漏らす。
内省に耽っていた私の意識は、その声で準備室に戻ってくる。邪魔だとは思わなかった。どうせこのまま考えこんでいても、いつもどおり毒にも薬にもならない思考しか湧いてこない。
私は途切れた集中力を弄ぶのを諦め、椅子から立ちあがって伸びをする。
ソファでは私の気など知るよしもない牧野が気持ちよさそうに寝ていた。
……気楽なもんだ。
どこか猫を思わせる彼女の姿に、そんなことを思う。
この女にもなにか夢中になって打ち込めるものがあるのだろうか。教室で友だちと話して馬鹿笑いをしているイメージしかないが、この女も私のように、延々と思い悩んだりするのか。
――そんな事とは無縁そうだな。
それを妬ましく思いはするもの、それも当然だろうという想いのほうが強かった。なぜなら牧野は今まで私が出会ってきただれよりも――いや、なによりも、綺麗で美しかったから。
そうした懊悩とは無縁であって欲しいという気持ちが自然と湧いてきていたのだ。
――綺麗だ。
私は絵を描いている人間だからか、視界に入ったものに対して美醜の評価を下しやすい。
十代という生きものは、男女ともに成長過程にある。変化を前提にした柔軟な体は『可能性を秘めている』と言えば聞こえはいいが、その実、なにもかもが中途半端で醜いだけだった。
そう。
十代という期間は嫌でも不格好で、醜くなってしまうものなのだ。
それが今まで私が周りの人間たちを観察して得た知見だった。
にもかかわらず、牧野は美しすぎた。
今この瞬間が人生のピークであることを示すように。
これから先、牧野だって心身ともに多少の成長はするはずだ。私には彼女がこれ以上美しくなる様など想像できず、それゆえ、彼女を待っているのは劣化だけだという諦観に駆られる。
――この瞬間の美しさを私が描いて記録したい。
そう思うようになるまで、時間はかからなかった。
――どうせ私はスランプで、自分の内側に描きたいものも見出せない。
それなら一度、そうした事柄は脇に追いやって、自分が美しいと思えるもの、描きたいと思えるものを、そのまま描いてみるのもアリな気はした。だから私は、牧野を描き始めた。