6話 光
辺りは血に染まっていた。
鉄のぶつかる音や勇ましい男の声はもうほとんどしない。代わりに耳を塞ぎたくなるような悲鳴、断末魔が常にイリスの鼓膜を浸している。
既に複数のコボルトは魔法部隊の方に到達している。
魔法部隊の彼らは、必死にモンスターを村人に近づけまいと戦っていた。しかし通常兵士が惨敗を喫したモンスターに、魔法特化した彼らが白兵戦で勝てる確率は満に一つも無かった。
行われていたのは一方的な虐殺だ。
身体を切り裂かれ、肉ごと噛みちぎられ、生きたまま食われ、彼らは次々と息絶えていく。
目を覆いたくなるような光景に胸を締め付けられる。
私が加勢すれば魔法部隊の何人かは助けられるかもしれない。
兵士たちから、からかわれていた少女は無事だろうか。
遠吠えが聞こえる。
どこからだろう。
遠吠えが応える。
自分の周りのコボルト達だ。
村の方からこちらに近づいて来るものがある。
胸騒ぎがする。
嘘でしょ。そんな。
だって、今来られたら……。
しかしそれは不気味な青白い光を発しながら、集団で真っ直ぐこちらに向かって来る。
恐らく先ほどまで村に留まっていたコボルトの群れが、急激に近づいてい来ているのだ。
全身から汗が吹き出す。
村人たちが――あの子達が危ない。
イリスは幼い少女達を隠した場所に向けて走った。
手足が千切れるかと思うほど全力で駆けた。
既にコボルトの増援に気付いた村人達がパニックに陥り、我先にと森を目指し始めている。
「待って。今森に入っても誰も助からない!」
いや、森に入る前に殺される!
イリスの予想通り、魔法部隊と戦っていたコボルト達が身を翻し、逃げた村人を追いかけ始めた。
背を向けて逃げる者を追う習性があるのだ。
コボルトは一瞬で村人に追い付き、次の瞬間には血の飛沫が至るところで闇夜に弾けた。
私はまだ、この地獄で、もがかないといけないのだろうか。
どうして、私だけが……。
押し寄せてくる絶望を振り払うように、イリスはグッと目を一度閉じ、見開いた。
諦めてはいけない。
このままだと死人が増える一方だ。
――間に合って……!
イリスは最後の力を振り絞って魔法の詠唱を始めた。
雷の中級魔法「雷鋒」
この魔法が決まれば、倒せないまでも多少の足止めは出来る。
その間に少女と、残っている兵士や村人を連れて逃げれば――。
突然、強烈な圧力が肩にのしかかった。
膝を崩したイリスはなす術なく転がった。
防御体制になれないまま身体を打った痛みが全身を覆う。
何が起こったの?
うつ伏せに倒れた身体を仰向けに変えた瞬間、巨大な影がイリスの身体にのしかかって来た。
牙を剥いたコボルトだ。
すかさず剣で切り払おうとするが、手に剣が握られていない事に気付く。
――倒された衝撃で落としてしまった。
コボルトはまるで嘲笑するような唸り声を上げながら、イリスの首に手を掛けた。
その手に力が込められる。
息が詰まる。
吸えない。
あっ、かっ、と僅かな吐息が口の中で起こるだけだ。
イリスは必死にコボルトの両手を振りほどこうともがく。だがびくともしない。
コボルトは愉快そうに、徐々に締める力を強める。
頭が充血していく感覚と共に視界が暗くなっていく。
身体が言うことを聞かなくなっていく。
駄目だ、こんなところで諦めては。
こんな奴に殺されてはいけない。
ふと誰かの視線を感じる。
イリスが目を横にずらして必死に確認しようとすると、それは滑舌が悪いとからかわれていた魔法部隊の少女の顔であることに気付く。
身を潜めていて無事だったのだろうか。
でもここにいたらいずれ殺され――。
違う。
身体がない。
首から上しかない。
そこには少女の首が転がっているだけだ。
瞳孔の開いた目がこちらを向いているだけだ。
それが分かった瞬間、イリスの身体から力が抜けていった。
必死に抵抗していた両手はダラリと地面に滑り落ちる。
急激に視界が歪んでいく。
コボルトに対する激しい怒りも、
目尻を伝う温かい涙の感触も、
首を絞められて苦しいという感覚も、
消えていく。
溶けていく。
分からなくなっていく。
私は、死ぬの? こんな所で。こんな卑劣で知能もないモンスターにやられて。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんな、さい。
守れ、なかった。守る力が、無、かった。
父さん、母、さん。もう、あ、えない。
、意識、が、
保て、な、
い、
僅かな視界を、巨大な鳥が横切った、気がした。
キラリと銀色の光が、イリスを照らす。
一陣の風が頬を撫で付ける。
光った。
どうして、鳥が。
違う。鳥じゃない。
白刃だ。
ーー巨大な「剣」が私の頭上を横切ったんだ。
その考えに達した瞬間、イリスの意識は覚醒していた。
一番最初に目に映ったのは夜空に光る星々だ。
そこにあるべきコボルトの上半身が無かったからだ。
次に目に映ったのは、黒い霧のようになりながら消えていくコボルトの下半身だった。
イリスの首を閉めていた手は既に消えている。
それが分かった途端、肺に空気が舞い込んでくる。
喉が詰まる感覚にむせ返りながらイリスは必死に呼吸した。
誰かがあたしを助けてくれた。
副隊長が? それとも村の中に生き残っていた兵士がいたの?
上体を起こしたイリスの目に男の背中が映る。
ヨレてボロボロになった、たなびくマント。そして筋肉で盛り上がった背中の向こうから、大きく空に伸びる巨大な剣。
その長さが尋常では無い。
どう見ても刃の部分だけで男の身長を超えている。
あれは本当に剣なのだろうか。剣として振るうにはあまりにも大きすぎる。
「貴方が、あたしを助けてくれたの……?」
男が首を動かし、横目でイリスを見た。
その目は紅い光を宿し、殺気に漲っている。しかし顔つきは意外にも初々しさがあり、青年というより少年に近い。
その時、正面から一匹のコボルトが飛び出してきた。少年は向き直り、ゆったりとした動作で剣を上段に構える。
あまりにも巨大な剣であるためか、その行為だけで起こった刃風がイリスに届く。
「気を付けて! そのコボルトは斬られても死なないわ!」
今度は振り返らず、少年ははっきりと言った。
「死ぬ。俺の剣なら」
瞳光るは炎の如く。
踏み込む足が大地をにじる。
振るう剣は猛る風。
新月切り裂く紅き月。
魔物食らうは銀き鉄。
少年の振るった剣はそのまま地面を深く抉った。
草どころか土が大きくえぐれ、まるで大砲の弾が衝突したかのような跡を作っている。
イリスには剣を振るうその動作が、まるでスローモーションのようにゆっくりと見えた。
彼女の意識は、真っ二つになったコボルトが地面を叩く音を聞いて元に戻る。
「う、嘘……!」
あんなに硬くて、表皮を切るので精一杯だったのに。イリスだけではない。他の誰もが、あの副隊長でさえもコボルトを両断するなんて出来なかったのだ。
呼吸をするのも忘れるほど、その光景に見入っていたイリスは更に驚愕した。
真っ二つになったコボルトが、先ほどイリスにのしかかっていた個体と同じように、黒い霧になって切断された面から消え始めたのだ。
――消滅している。
もしかして、これが唯一コボルトを殺しきれたという証なのだろうか。
「その、コボルトを倒すには貴方みたいに両断するしかないの?」
「違う」
剣士はまるで鍬を振り上げるかのような動作で大剣をもたげる。
「こいつらを殺したきゃ『心臓』を狙え。それが唯一、普通の人間が『邪神の加護を受けた魔物』を倒せる手段だ」
心臓? 邪神? 加護?
新たな情報が多すぎてイリスの頭は混乱しそうだった。しかし剣士はイリスに構う事なく、敵の方に向けてゆっくりと歩き始めた。
「ま、待って! 貴方は誰なの?」
一度立ち止まった少年は、ゆっくりと背を後ろに倒し始めた。
あらん限りの息を吸い込んでいるのだと気づく。
その動きも、止まる。
次の瞬間、剣士は体内に貯め込んだ空気を全て吐き出しながら絶叫した。
「俺は狂戦士だああああああああああっ!!!」
一瞬、戦場が静かに感じるほどビリビリと空気を震わせるほどの大音声だった。
その声はイリスに答えたというよりも、コボルトたちに名乗りを上げているという意味合いが強そうだった。
狂戦士は走り出した。彼の双眸に映るコボルトは敵と映ってはいない。
獲物だ。
狂戦士の狩りが始まる。